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反省なき祈り、雲仙・普賢岳:大火砕流19年、        

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  人気blogランキングへ クリックお願いします   ブログセンターランキングへ。   雲仙・普賢岳:大火砕流19年、慰霊の祈り 長崎・島原

「災害犠牲者追悼之碑」に花を供え、手を合わせる遺族たち=長崎県島原市で2010年6月3日、加古信志撮影 死者・行方不明者43人を出した長崎県雲仙・普賢岳の大火砕流から19年となる3日、被災地の同県島原市で追悼行事があった。市はこの日を「いのりの日」と定め、終日慰霊の思いに包まれる。  普賢岳は90年11月17日に噴火。大火砕流で91年6月3日に43人、93年6月23日にも1人の犠牲者が出た。周辺は今も立ち入り禁止状態が続いている。  午前8時半、市は仁田団地第一公園の「災害犠牲者追悼之碑」前に献花所を設置。遺族や横田修一郎市長、市民らが次々に白菊を手向け、犠牲者の冥福を祈った。  市内の小中学校で災害を語り継ぐ行事もあり、高野(こうや)小では、島原市の保育士、大山秀樹さん(29)が当時の思い出を話した。【古賀亮至】                         ◇ 毎年6月3日になると、ほぼ同じ内容の記事が全国各紙に掲載される。 その典型が上記記事で、他紙もほぼ同じ内容である。 だが、新聞を含むどのマスコミも触れていない「雲仙・普賢岳 大火砕流」の真実がある。 雲仙普賢岳火砕流被害は天災ではなかった。 亡くなったほとんどの犠牲者は人災、それもマスコミ報道陣の傲慢な態度がもたらした人災であったという事実に触れ、それを反省する記事は皆無である。 記事は、「普賢岳は90年11月17日に噴火。大火砕流で91年6月3日に43人、93年6月23日にも1人の犠牲者が出た」と、淡々と記述されている。 だが、実際は亡くなった村の消防団員や警官などのほとんどが、立ち入り禁止されている地域に無謀にも立ち入ったマスコミ報道陣を救出するため、やむなく「定点」以内に踏み込んで、火砕流の犠牲者になった人たちである。 当時の取材狂想劇に加わったNHKも、「消防団員や報道関係者など、あわせて43人が犠牲になりました。」と一言の反省も示さず報じている。 アレから既に19年も経つのだ。 当日記の読者でも、二昔も前の「人災」のことを記憶している人は少ないだろう。 記憶のないのを良いことに、マスコミが自分がもたらした「人災」のことを一言も報じないので、毎年当日記は同じエントリーを続ける。 微力なブログの、反省の一欠けらも見せない巨大マスコミに対する、せめてもの蟷螂の斧である。 あわせて雲仙普賢岳火砕流の犠牲者へ哀悼の祈りを送る。 以下は去年の同じ日のエントリーである。 皮肉を込めてそっくりそのまま掲載する。                         ◆ 毎年同じ時期に同じような行事が行われ、同じような記事を新聞が報道する。  長崎・雲仙普賢岳噴火の犠牲者追悼会のことだ。   その典型がコレ↓「火砕流から18年」って? で、来年は? 火砕流から18年、犠牲者を追悼 長崎・雲仙普賢岳
2009年6月3日  43人の死者・行方不明者を出した長崎県・雲仙普賢岳の大火砕流惨事から丸18年を迎えた3日、「いのりの日」と定めているふもとの島原市で犠牲者を追悼する行事があった。  噴火災害で家を失った被災者たちが移り住んだ同市仁田団地にある雲仙岳噴火災害犠牲者追悼之碑に献花所が設けられ、雨の中、こうべを垂れる人が続いた。  市内13小中学校では、子どもたちが校長や被災体験者の話を聴き、「いつまでも語り伝えよう」と誓った。大火砕流が発生した午後4時8分には市内でサイレンが鳴り、市民に黙祷(もくとう)を呼びかける。                     ◇ 18年前の噴火災害となると恐らく30歳以下の人は「自然災害は怖い」程度の認識しか記事からは読み取れないだろうが、これは自然災害ではなく「人災」であり、それも「マスコミの傲慢」がもたらした「マスコミ災害」ともいえる。 だが、記事には「己がもたらした災害」に対する微塵の反省も見ること無い。 恐らくは来年も同じ時期になると、「火砕流から19年」と、無反省な記事を書き連ねることだろう。 >「いつまでも語り伝えよう」 子ども達にもこのことは伝えて欲しい。 「暴力団もマスコミがカメラを構えると一瞬怯むが、火砕流はカメラを構えても何の躊躇も無く彼らを直撃する」と。 そう、火山が噴火するのは花が咲き、花が散るのと同じく自然の営みの一環であり、そこに土足で踏み込んだマスコミが被害を被るの「天罰てきめん」といわれても仕方がないが、 彼らの無法な「定点」(立ち入り禁止点)越えの行動を警戒して、事故に巻き込まれた多くの消防団員や警察官の死は、マスコミの傲慢な行動が無ければ、起こる筈のない無念の事故死である。  これを指摘されると彼らは得意の開き直りで、このように抗弁するだろう。 「なぜ、もっとはっきり警告しなかったのか、また強力な立ち入り規制がなぜできなかったのか」などと。 だが、亡くなった12人の消防団員のほとんどは、普段は農業をする若者であり、彼らが押し留めたとしても功名心に駆られておっとり刀、いや、おっとりカメラで現場に駆けつけた傲慢なマスコミが、警告に従っていただろうか。 彼らの日頃の言動を見ると、否の一言に尽きる。 恐らくは「報道の自由」だとか「事故を読者に伝える義務」とか戯言をほざいて、同じように「定点」を越えていただろう。   新聞は己が引き起こした「人災」には頬被りして反省を見せないので「消防博物館」の記事からマスコミの犯した犯罪を読み取って欲しい。 まさかの噴火-「雲仙・普賢岳 噴火災害を体験して」より- 2大惨事発生なぜ消防団が犠牲に

  土石流の危険がなくなったということで、5月26日から出ていた避難勧告が上木場地区を除いて6月1日にはいったん解除されました。この日までは消防団も安全な白谷の公民館で連日警戒活動に当たっていました。
  この間、一部の報道関係者が留守宅の電気や電話を無断で使用するという事件が発覚しました。
  マスコミは、当時、火砕流がもっともよく見える北上木場地区の「定点」といわれた場所で、火砕流の迫真の映像を撮影しようと毎日のように取材を行っていました。この「定点」を含む地域一帯はすでに避難勧告地域に指定され、住民は全員避難していて、住宅には誰もいませんでした。報道関係者は、この無人となった家に上がり込み、テレビカメラのためにコンセントから無断で電源を盗用しました。このため消防団は、土石流の警戒に加え事件の再発を防ぐ目的もあって翌2日には再びこの「定点」の近くの北上木場農業研修所に警戒本部を設けることにしました。そして6月3日の夕方4時8分、それまでにない大規模な火砕流が発生し、この「定点」付近にいた人たちを一瞬のうちに飲み込みました。
  亡くなった12人の消防団員のほとんどは、農家の大切な跡取り息子たちでした。彼らを失ってしまったために、遺族の生活再建や地域の復興は困難を極めました。
  この惨事の後、マスコミは地元住民から痛烈な非難を受けることになりました。他方、当時、その場所が本当に危険な状況であったのなら、なぜ、もっとはっきり警告しなかったのか、また強力な規制がなぜできなかったのかなどを指摘する人もいました。さらに消防団の指揮命令系統のあり方にも大きな課題を残しました。
6月3日前の定点風景(マスコミはここで毎日火砕流を撮影していた)。
6月3日はこの場所にいたほとんどの人が亡くなった(提供 テレビ長崎)
北上木場の農業研修所では消防団員と
警察官の14人が火砕流で亡くなった
(手前が焼失したパトカー)
(H4夏 撮影・杉本伸一) 被災直後の北上場農業研修所(写真下中央)
(H3.6.5 撮影・太田一也)
                     ◇ 関連エントリー:  マスコミが報じない「雲仙・普賢岳噴火災害の真相」 マスコミが犯人の長崎・雲仙普賢岳噴火災害 浅間の噴火 雲仙・普賢岳の教訓を忘れるな!あれから18年   沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所

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