台湾慰霊の旅を機会に、沖縄戦と台湾、そして「台北会議」について考えてみた。
太平洋戦争(大東亜戦争)は、軍服を着た官僚と言われる佐官級の優等生の作戦で主導したといわれる。
台湾最南端のバシー海峡の荒波を目前にし、はるかに望むフィリピン諸島を眺めたとき、偏差値秀才服部卓四朗の名が脳裏を過った。
服部卓四郎を瀬島龍三、辻正信と並べて日本陸軍の三大A級戦犯と呼ぶ人がいる。
瀬島は、作家の山崎豊子の著『不毛地帯』で極端に美化して描かれており、戦後伊藤忠に入社し、副社長にまで登りつめ、中曽根康弘の顧問を務めるなど社会的に著名な人物。
辻は、戦後バンコックにいたが僧侶に身をやつして各地を逃げ回った。48年戦犯が解除されるや日本に帰り、衆参議員に当選した。61年出国したがラオスで行方不明になり、波乱万丈の一生が新聞ダネとなった。
この三人に共通するのはいずれも士官学校、陸軍大学校では優等生であり、作戦の中枢部にいた「優秀な」若手佐官であること。
後に沖縄戦の作戦に関与する服部卓四郎は、開戦直前に起きたノモンハン事件の作戦責任もので、戦線拡大の強硬派であった。
ノモンハン事件とは、1939年,モンゴルと満州 (中国東北部) との国境地区で起った日本軍とソ連軍の大規模な衝突事件のこと。
結果は,日本軍の惨敗に終った。
ノモンハンは満州国の西北部にあり,外モンゴルとの国境が不明確な,国境紛争の発生しやすい地帯であった。
5月 11日,ノモンハン付近で満州国警備隊と外モンゴル軍が交戦したのが事件の発端になった。参謀本部と陸軍省は当初から事件不拡大の方針をとったが,現地の関東軍は中央の意向を無視して戦闘を続行,拡大し,外モンゴルとの相互援助条約に基づいて出兵したソ連軍と激戦を展開した。
8月下旬にはソ連機械化部隊の大攻勢が行われ,日本軍は大敗し,第 23師団は壊滅した。
服部と辻はノモンハン事件のときの関東軍の作戦主任と作戦参謀、彼らは、ソ連軍の武器の質と量で大敗北を喫したがその反省は全くなかった。 新知識を否定し、近代兵器よりも38式歩兵銃しか持たぬ歩兵に頼り、敗戦の責任を前線の指揮官に押し付けた。
2人はノモンハンの敗戦後、しばらく閑職にいたが1941年3月末までに東京の陸軍参謀本部に栄転する。
日米開戦時、服部は作戦課長、敗戦時は部長、辻は開戦時、参謀本部作戦班長だった。 そしてフィリピン・レイテの敗北やサイパン陥落を受け、服部は作戦指導のためフィリピン、台湾へ出張。 沖縄防衛のため訓練中の大2軍に電報を打ち、八原博通32軍高級参謀を「台北会議」に呼びつける。 服部は米軍が攻撃するのは沖縄の前に台湾と判断し、沖縄防衛の最強の兵団8師団を台湾へ引き抜くことを決定する。 この服部の判断ミスが、台湾上陸を避け沖縄上陸を図った米軍により「鉄の暴風」の悲劇が生じることになる。 つまり日米開戦直前のノモンハン事件惨敗の責任者である服部卓四郎がその責任を取ることなく大本営参謀の中枢に栄転したのが沖縄戦の悲劇の始まりだった。 服部は、終戦間際の沖縄で、沖縄防衛軍の三分の一に及ぶ最強軍団を台湾に引き抜くという間違った判断で、沖縄戦の悲劇を招いたということになる。 つづく よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします