20013年7月19日、5年越しに福岡高裁は原告上原正稔さんの一審の請求棄却を覆し、琉球新報の敗訴を認め、百五十万四千円の支払いを命じた。
さらに上告期限である8月10日までに、上告断念し新報社の敗訴が確定した。
上原「この判決は沖縄の歴史をひっくり返す重要な判決です。 集団自決の真実を伝えようとする動きを、琉球新報が潰そうとし、これに戦って勝ったのです」
ただ、この画期的判決を沖縄2紙はもちろんほとんどのメディアは報道しなかった。
現在でもこの判決確定を知る県民は少ない。報道の自由、知る権利の排除。
大江岩波集団自決訴訟 「判決文に軍が命令を出したという直接的な証拠はない」と明記されている。
「沖縄の声」とは。タイムス新報の声であり、それを支える沖教祖、自治労、大学教授、学者らのゆがんだ声。
うえ原「宮城初枝の娘 晴美、「母の残したもの」の著者に1972年ごろ、取材、
上原「軍名はなかったんじゃないか」
晴美が、うなずく。
上原「もっとはっきり言ってください」
晴美「はっきりは言えないのです」心苦しくいった
⇒村の長老、援護金でがないと生活が困る。
■金武町の場合
「もらえる者はもらうほうが良い」と指導。
援護金申請の現認証書の「誰が命令したか」の欄に架空名の「田中軍曹」と書いたため、問題は起きなかった。 教育委員会の奥間俊夫氏の証言。 共同正犯。
一方、座間味島、渡嘉敷島では、「鉄の暴風」で「朝鮮人慰安婦と不明死した」と書かれた梅沢裕隊長、や赤松さんの名前を書いたため、生存しており家族を巻き込んで名誉棄損の問題が生じた。
厚生局、積極的軍への協力の暗示。軍の命令。援護金支給。
お金の問題があるから、沈黙する。
金城重明。けがを赤松さんに手当してもらう、。薬の在りかも教えてもらう。
沖縄2紙のデマ
1970年、赤松元大尉が渡嘉敷島の慰霊祭に参加のため、那覇空港に降り立った。
そのときの状況は、沖縄2紙は「沖縄県民は出て行け、帰れ、など怒りの拳を突きあげ追い返したと報じた。
星雅彦さんがその現状を目撃。後日談。
その過激な集団は市職労の組合員で、島民は、渡嘉敷尊重の玉井喜八さんだけ。
極め付け」⇒「昭和53年の33回忌、赤松さんの奥さんを招待。遺族会と元隊員が合同慰霊祭を行っている、。