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大田元県知事が92歳で死去した。
大田元知事とは考え方の違いから当日記でも何度も批判してきた。 辺野古移設を巡り県とと国が対決する混乱の原因を作った人物故批判せざるを恵那市からだ。
だが、県知事や国会議員を務めた沖縄で最も有名な人物の1人。いろんな意味で沖縄の政界に大きな影響を与えてきた大田元知事のご冥福をお祈りいたします。
今朝の沖縄タイムスは、現役の知事が急死した以上の大発狂で、合計8面を大田元知事関連記事で埋めている。
見出しのすべてを拾うのは面倒なので,一部抜粋して紹介しよう。
■一面トップ
大田昌秀元知事死去
基地問題解決に尽力
92歳「平和の礎」建立
■二面トップ
普天間返還に道筋
村山元首相「県民は志継承」
■社会面トップに
平和を追求 礎築く
良識ある県民が読んだら号外まで発表し、「平和の礎」や「一フィート運動」に関するトンチンカンな「大田賛美」の見出しの羅列に比べ、八重山日報・本島版は一面ではあるが、中段に極めて冷静な小さな記事。(文末の【おまけ】参照)
大田昌秀氏が死去
元沖縄県知事 92歳
基地問題など尽力
大田昌秀元沖縄県知事が死去 92歳 普天間返還要求、「平和の礎」建立
沖縄タイムス 2017年6月12日 14:58
沖縄県知事を2期8年務め、参院議員などを歴任した大田昌秀(おおた・まさひで)さんが12日午前11時50分、呼吸不全・肺炎のため、那覇市内の病院で死去した。92歳だった。旧具志川村(現久米島町)出身。
戦前の沖縄師範学校に進み、1945年3月、鉄血勤皇隊に動員された。多数の学友が戦死するのを目前にし、九死に一生を得た。
自身の体験を踏まえ、戦後は琉球大教授として沖縄戦と戦後史研究の第一人者として活躍。90年の知事選に革新統一候補で出馬し、初当選を果たした。98年まで2期務めた。
在任中の95年、米軍基地の強制使用の手続きの一つ代理署名を拒否した。政府は知事を相手に、職務執行を求める訴訟を提起。大田さんは沖縄戦の悲惨な体験や過重な基地負担を背負う沖縄の歴史的背景を訴えたほか、最高裁大法廷では「一地方の問題ではなく、主権と民主主義が問われる、すぐれて日本全体の問題だ」と意見を述べ、現在の翁長雄志知事の主張に連なる問題を提起した。96年に最高裁で敗訴が確定した。
95年には、米兵による暴行事件が発生。県民の反基地感情が激化した。大田さんは橋本龍太郎首相に普天間飛行場の即時返還を要求した。日米両政府は翌96年4月に普天間飛行場の返還を発表。県内移設が条件となり、名護市辺野古の新基地建設問題に発展した。
平和行政の柱とした「平和の礎」を95年6月、糸満市摩文仁に建立。国籍を問わず、軍人や民間人を区別せず、沖縄戦などの戦没者を刻銘した。初の女性副知事の登用や女性総合センターの落成など女性の社会参画に取り組んだ。在任中に県公文書館も開館した。
大田さんは普天間飛行場の県内移設に反対し、98年に代替施設の受け入れ拒否を表明。同年秋の知事選で稲嶺恵一さんに敗れた。
2001年には参院選比例区に社民党から出馬し、当選。1期務め、07年に政界から引退した。
その後、那覇市に沖縄国際平和研究所を開設し、理事長に就任。沖縄戦関連の文献や写真などの資料を所蔵・公開し、沖縄戦を後世に伝える役割を担った。
☆
大田元知事の死去に伴い、過去記事から追悼記事を転載しようと思ったが、批判記事しかなかった。
☆
以下は大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘 の再掲です。
■大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘
戦時中沖縄に上陸した米軍が撮影した一枚の少女の写真がある。
「うつろな目の少女」と呼ばれる写真の少女は、負傷した右手を布で首から吊るし、花柄模様の着物は血に染まり、オカッパ頭の放心した表情でカメラを見る姿はいかにも痛々しい。
この写真は琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』(大田昌秀著)の表紙を飾り、さらに扉一枚を使って大きく紹介され、同書に掲載のもう1人の沖縄戦の少女、「白旗の少女」とともに沖縄では良く知られた写真である。
沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多い。
だが沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。
調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。
沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。
大田氏の最新の著作「二人の『少女』の物語」(2011年、新星出版)は、戦争に翻弄される二人の「少女」を描いているが、全編を通して大田氏のイデオロギーで事実が歪曲、捏造されている。
本稿は、大田昌秀氏のベストセラー『これが沖縄戦だ』の表紙を飾った「少女」にまつわる稀代の詐話師の「語り部」と著者大田昌秀氏が、琉球新報や朝日新聞などのメディアを巻き込んで事実を捏造した驚くべき嘘の物語である。
■嘘つきは「語り部」のはじまり
2010年の夏、筆者は浦添市のとある喫茶店で、『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏から座間味島旅行の土産話を聞いていた。
当時沖縄県文化協会長を務めていた星氏は、沖縄の知識人として誰より早い時期に集団自決の行われた座間味島に現地取材をしたことで知られ、県史の編纂にも参画した。
星氏は、座間味村に滞在中、偶然にも、神戸から来た20人ほどの「平和学習ツアー」と称する教員グループと同行することになる。
そして宿泊した民宿が所有する小型バスに便乗して戦跡の壕巡りを体験した。
そのときの写真の一枚に写っている人物を見た筆者は、思わず驚きの声を発した。
「うつろの目の少女だ!」
「この嘘つきの語り部がこんな所でまだ他人を騙しているのか」――
星氏が示す写真には正面を向く老人が写っているだけで、1人の少女も写っていない。
写真の老人を指して、少女だと呟く姿は他人の目には、異様に映ったであろう。
筆者が「うつろな目の少女」、「嘘つき」などと決め付けたその老人は、夏休みを利用して神戸の教員グループを率いて座間味案内をしていた沖縄戦の語り部だった。
この人物こそ筆者が長年追い続けていた当時78歳の大城盛俊氏だった。
写真を見て「少女だ」と言ったわけは、こうだ。
大田昌秀著『これが沖縄戦だ』(琉球新報社)の表紙の写真の少女が、戦後65年経って座間味村で戦跡ツアーを案内する語り部の老人と同一人物と考えたからだ。
伊丹市在住の大城氏は勿論男性であり、沖縄戦の語り部を引退すると報じられていた。
老人とオカッパ頭の少女をめぐる衝撃の物語を説明するため、7年前の「沖縄慰霊の日」に時を巻き戻す。
■朝日の一面を飾った「うつろな目の少女」
2008年6月23日「沖縄慰霊の日」。
その日の朝日新聞夕刊は、一面トップをこのような大見出しで飾った。
「63年年目 沖縄慰霊の日」
「残酷なのは戦争」
「75歳語り部来年引退」
朝日の記事は、沖縄戦で日本兵の残虐非道な暴行で右目を失明し、その後遺症で足が不自由になった大城盛俊氏が、沖縄戦の語り部としての講演活動を引退すると報じた。
さらに記事は、63年前に米兵によって撮影されたオカッパ頭の「少女」の写真と、講演をする現在の大城氏の写真を並べて掲載し、「少女」と大城氏の関係を、次のように報じている。
<大城さんは沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>
過去に1120回を超える講演をしてきたといわれ、講演会のプロともいえる大城氏なら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると誰でも想像する。
ところが沖縄出身の筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、朝日が報じる石垣島での最後の講演会しか知らない。
しかもただ一度の沖縄での講演会が、なぜか沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だというのも不可解だった。
朝日の報道により、大城氏と「うつろな目の少女」の関係は一応理解できる。
しかし、それを詳しく知るためには、面倒でも更に時を遡って2007年の8月に巻き戻さねばならない。
つづく
うつろな目の少女
沖縄戦の語り部・大城盛俊氏
【おまけ】
本日(13日)八重山日報本島版の一面トップの見出し
反基地派の活動けん制
我那覇さん国連演説へ
については、本日午後アップの予定。
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