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民主主義と平和を考える

 

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今年は、1月早々に起きたIS(イスラムテロ集団)による後藤さん湯川さん人質・殺害事件という衝撃的ニュースで幕開けした。 そしてISによるパリテロ事件では、イスラム社会の西欧先進国(キリスト教社会)への挑戦と受取る論調も見られた。

そしてイスラム教の異教徒に対する苛烈な対処を批判する向きもあったが、異教徒に対する苛烈な攻撃に関して言えば、十字軍(キリスト教)の異教徒に対する迫害はイスラム教に勝るとも劣らない。

平和ボケしたわが国ではキリスト教の行事であるハロゥインのバカ騒ぎの直後にクリスマスを祝い、大晦日には仏教の除夜の鐘を聞いた直後に、神道の神社で初詣をする。

そしてバレンタイン狂騒曲が続く・・・。

なんとも大らかな宗教感ではないか。

ところが、キリスト教国の英米に敗戦を喫したわが国は、戦後もキリスト教は正しいというトラウマを脱していないという。

以下に紹介する池田 信夫氏のブログで「敗戦でアメリカに屈服したトラウマを隠蔽することが左翼にも右翼にも共通の「戦後の嘘」だが、この背景には近代国家を「独立の主権国家」として理想化する「近代の嘘」がある、と加藤氏は指摘し、それを最初に暴いたのが福沢だという」と説明している。

引用文中の加藤氏が指摘する「近代国家」(キリスト教国家)を理想化する「近代の嘘」とは、議会制民主主義を理想の政治制度と妄信する国民への皮肉とも取れる。

民主主義の根幹を成す公正な選挙は、いまや世論を左右するまでに増長したメディアによって形骸化し、機能不全の状態にある。

仮に法的に公正な選挙が行われたとしても、多数決で決まる当選者が候補者の資質より人気投票によって決まるのが民主主義の実態だ。

歴史を振り返ってみよう。

希代の凶悪政治家とされるヒトラーも、民主主義の人気投票と化した選挙制度で国の統治者として選出された。

民主主義の本場とされるイギリスの首相であるウィンストン・チャーチルは、民主主義についてこう語っている。

 
民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。

皮肉屋のチャーチルらしく、回りくどい表現をしているが、筆者のような単純思考の人間にもわかる様に言い替えると、こうなるらしい。

民主主義は欠点も多く、必ずしも理想の政治制度ではないが、他にこれに勝る制度がみつからないので、民主主義に拠るしか術はない。

 

ちなみに写真を撮られるとき、指でVサインをして「ピース」と口走る若者が多いが、第二次大戦でナチス・ドイツに勝利した軍人出身のチャーチル首相の「勝利のvサイン」が有名である。

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「チャーチル vサイン」の画像検索結果

チャーチルのVサインは平和のピースサインではない。

勝利のVサインなのだ。

確かにドイツとの戦争に勝利したので、平和が訪れるという意味では「ピースサイン」だろうが、実際は「対独戦争の勝利」の意味のvサインである。

ISのパリテロ事件の直後、フランスのオランド大統領は、「これは戦争だ!」と叫び、パリのメディアもそう報じた。それは、9・11テロの直後にブッシュ大統領が叫んだのと同じ言葉であった。

平時と有事の明確な境目が消えた瞬間である。

第二次大戦後、「戦争と平和」の概念が大きく変わった。 「戦争」と「平和」を別々の現象と捉えるのが困難な事態に突入した。

戦争と平和の連続性を、一連のテロ事件が証明したのだ。

19世紀の軍事学者クラウゼビッツは「戦争とは政治(外交)の延長線上にあるもの」と定義した。

クラウゼビッツの定義に従がうと、戦争と平和の間には外交による戦争、情報戦、歴史戦等絶えず「切れ目のない」(シームレス)戦争状態が続いていることになる。

文豪トルストイの「戦争と平和」の時代は、有事のには「戦争という黒」そして平時には「平和という白」に明確な色分けができた。

ところが現在の戦争と平和の色分けは、白と黒ではない。

平時からグレーゾーン、小規模有事、大規模有事という流れに切れ目なく戦争という黒に続くという。

日本語の「平和」に相当する中国の単語は「和平」である。

 「平和教・教祖」の大江健三郎氏は九条の会の集会でこう演説した。

 「戦争の準備をすれば、戦争の方に近づきます。平和を望むなら平和を準備したほうが良い」

 頭の悪い物書きの見本がこの言説だ。

 平和は憲法九条の念仏のように唱えれば準備できるものではない。

 平和を求めるには、戦いに備えるのが鉄則だ。

 健康を求めるには病原菌や病との戦いに備えるのと同じことだ。

 

英語の「平和」(PIECE)はPACIFY(和平する)の派生語である。

何気なく使用している「太平洋」は「平和の海」を意味する「PACIFY(和平する)の形容詞形(Pacific)を使ったはPacific Oceanである。

いずれも戦争に備え、和平交渉の結果勝ち取ったのが「和平」すなわち「平和」という感覚だ。

平和とは平和を唱えれば天から与えられるものではない。

戦争に備えて自ら勝ち取るものだ。

侵略者に対しては、自衛権の行使(抑止力)で対抗し、できれば戦わずして和平に導くのが古今東西「平和」の鉄則だ。

 

ちなみに英語で平和主義者のことをPACIFISTという。

 

来年は、議会民主主義の欠点を再検証すと同時に「平和主義者」についても深く論考してみたい。

同時投稿 韓国は主権国家という「近代の嘘」

池田 信夫

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時事小言
1月から始まるアゴラ経済塾は、経済学の観点から政治の失敗を分析しようというテーマなのだが、その第1回が図らずも日韓関係だ。

この問題を100年以上前に、客観的にみていたのが福沢諭吉だった。晩年の『時事小言』は、彼の「国権論」を集めたものとしてリベラルな福沢ファンには評判がよくないが、加藤典洋氏はこれを高く評価している。

敗戦でアメリカに屈服したトラウマを隠蔽することが左翼にも右翼にも共通の「戦後の嘘」だが、この背景には近代国家を「独立の主権国家」として理想化する「近代の嘘」がある、と加藤氏は指摘し、それを最初に暴いたのが福沢だという。

丸山眞男も「近代日本思想史における国家理性の概念」という論文で『時事小言』を(意外にも)高く評価している。その冒頭で、福沢は「天然の自由民権論は正道にして、人為の国権論は権道なり。或は甲[民権論]は公にして、乙[国権論]は私なりと云ふも可なり」と書く。

これは「痩我慢の説」の冒頭の「立国は私なり」という言葉と同じ、福沢の一貫した政治哲学だ。国家を公と考えて「国家理性」などと呼ぶのは欺瞞で、それは戦争のための暴力装置だから、raison d'etatは「国家の存在理由」という意味で、丸山はこれを国家利害と言い換えている。

だから福沢の「立国は私なり」という言葉は、国際政治学でいうリアリズムの先駆だった。特に彼が意識したのは、清を中心とする華夷秩序との戦いだった。日本は幸いその圏外にいたが、朝鮮は清の属国として貧窮の極にある。これを救うために、彼は朝鮮国内の「独立派」を支持したが、金玉均などの独立派はクーデタに失敗して惨殺される。

このあと起こった日清戦争に福沢は賛成し、多額の義捐金を出した。これにも批判が強いが、彼にとってこの戦争は、一足先に文明化した日本が華夷秩序に支配された朝鮮を解放する「私の戦い」だった。丸山は「国家理性」論文をこう結んでいる。 権力政治に、権力政治としての自己認識があり、国家利害が国家利害の問題として理解されているかぎり、そこには同時にそうした権力行使なり利害なりの「限界」の意識が伴っている。これに反して、権力行使がそのまま、道徳や倫理の実現であるかのように、道徳的言辞で語られれば語られるほど、そうした「限界」の自覚はうすれてゆく。「道徳」の行使にどうして「限界」があり、どうしてそれを「抑制」する必要があろうか(強調は原文)。 日韓の対立を喜んでいるのは、中国である。華夷秩序の特徴は、まさに国家を「道徳や倫理の実現」として語ることだ。中韓の「歴史問題」への執着は、彼らがいまだに華夷秩序の中にいることを示している。今回の日韓会談は、韓国の「近代の嘘」を明らかにしただけでも、安倍外交の勝利と評価していいと思う。   Image may be NSFW.
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