Quantcast
Channel: 狼魔人日記
Viewing all articles
Browse latest Browse all 9761

大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘 

$
0
0

 

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします  「狼」の画像検索結果

  ※お願い

 人気ブログランキングの投票が分散されるのを防ぐため、次のバナーをクリックお願いします。

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします    

■大田昌秀著 「二人の『少女』の物語」の大嘘    

戦時中沖縄に上陸した米軍が撮影した一枚の少女の写真がある。

「うつろな目の少女」と呼ばれる写真の少女は、負傷した右手を布で首から吊るし、花柄模様の着物は血に染まり、オカッパ頭の放心した表情でカメラを見る姿はいかにも痛々しい。 


この写真は琉球新報社発行の写真記録『これが沖縄戦だ』(大田昌秀著)の表紙を飾り、さらに扉一枚を使って大きく紹介され、同書に掲載のもう1人の沖縄戦の少女、「白旗の少女」とともに沖縄では良く知られた写真である。

沖縄で出版される沖縄戦関連の書籍は、書店に特設コーナーを設けるほど数多い。 

だが沖縄戦を少しでも検証した人が読めば、あまりにも事実の歪曲、捏造が多いことに気がつく。

調査不足や勘違いによる事実誤認ならともかく、著者のイデオロギーを押し通すため、意図的に事実を歪曲、捏造した例は目を覆うほどだ。

沖縄タイムス刊の『鉄の暴風』が嘘にまみれた伝聞記であることは今では旧聞に属するが、沖縄戦記の代表的書き手である大田昌秀元県知事の出版物から歪曲・捏造の記述を拾い出すと、それだけでも数冊の本が出来るくらいだ。 

大田氏の最新の著作「二人の『少女』の物語」(2011年、新星出版)は、戦争に翻弄される二人の「少女」を描いているが、全編を通して大田氏のイデオロギーで事実が歪曲、捏造されている。 

「大田昌秀 2人の少女」の画像検索結果

本稿は、大田昌秀氏のベストセラー『これが沖縄戦だ』の表紙を飾った「少女」にまつわる稀代の詐話師の「語り部」と著者大田昌秀氏が、琉球新報や朝日新聞などのメディアを巻き込んで事実を捏造した驚くべき嘘の物語である。

■嘘つきは「語り部」のはじまり


2010年の夏、筆者は浦添市のとある喫茶店で、『うらそえ文藝』編集長の星雅彦氏から座間味島旅行の土産話を聞いていた。

当時沖縄県文化協会長を務めていた星氏は、沖縄の知識人として誰より早い時期に集団自決の行われた座間味島に現地取材をしたことで知られ、県史の編纂にも参画した。

星氏は、座間味村に滞在中、偶然にも、神戸から来た20人ほどの「平和学習ツアー」と称する教員グループと同行することになる。

そして宿泊した民宿が所有する小型バスに便乗して戦跡の壕巡りを体験した。

そのときの写真の一枚に写っている人物を見た筆者は、思わず驚きの声を発した。

「うつろの目の少女だ!」

「この嘘つきの語り部がこんな所でまだ他人を騙しているのか」――

星氏が示す写真には正面を向く老人が写っているだけで、1人の少女も写っていない。

写真の老人を指して、少女だと呟く姿は他人の目には、異様に映ったであろう。

筆者が「うつろな目の少女」、「嘘つき」などと決め付けたその老人は、夏休みを利用して神戸の教員グループを率いて座間味案内をしていた沖縄戦の語り部だった。

この人物こそ筆者が長年追い続けていた当時78歳の大城盛俊氏だった。

写真を見て「少女だ」と言ったわけは、こうだ。

大田昌秀著『これが沖縄戦だ』(琉球新報社)の表紙の写真の少女が、戦後65年経って座間味村で戦跡ツアーを案内する語り部の老人と同一人物と考えたからだ。

伊丹市在住の大城氏は勿論男性であり、沖縄戦の語り部を引退すると報じられていた。

老人とオカッパ頭の少女をめぐる衝撃の物語を説明するため、7年前の「沖縄慰霊の日」に時を巻き戻す。

■朝日の一面を飾った「うつろな目の少女」

2008年6月23日「沖縄慰霊の日」。

その日の朝日新聞夕刊は、一面トップをこのような大見出しで飾った。

「63年年目 沖縄慰霊の日」

「残酷なのは戦争」

「75歳語り部来年引退」

朝日の記事は、沖縄戦で日本兵の残虐非道な暴行で右目を失明し、その後遺症で足が不自由になった大城盛俊氏が、沖縄戦の語り部としての講演活動を引退すると報じた。

さらに記事は、63年前に米兵によって撮影されたオカッパ頭の「少女」の写真と、講演をする現在の大城氏の写真を並べて掲載し、「少女」と大城氏の関係を、次のように報じている。

<大城さんは沖縄戦当時12歳。「男の子は日本軍に何をされるか」と案じた父が少女の格好をさせていたが、食べ物を持っていこうとした日本兵に殴られて右目失明などの大けがを負った。米軍に手当てを受けている写真を、琉球大学教授だった大田昌秀・元沖縄県知事が「うつろな目の少女」と名付けて本の表紙に使い、大城さんは84年に「これは私」と名乗り出た。>

 過去に1120回を超える講演をしてきたといわれ、講演会のプロともいえる大城氏なら、地元沖縄ではこれまでも数多くの講演会を行っていると誰でも想像する。

ところが沖縄出身の筆者でも大城氏が沖縄で講演会を行ったのは、朝日が報じる石垣島での最後の講演会しか知らない。

しかもただ一度の沖縄での講演会が、なぜか沖縄本島を遠く離れた石垣島での講演だというのも不可解だった。

朝日の報道により、大城氏と「うつろな目の少女」の関係は一応理解できる。

しかし、それを詳しく知るためには、面倒でも更に時を遡って2007年の8月に巻き戻さねばならない。

つづく

  うつろな目の少女

 

「大城盛俊」の画像検索結果

沖縄戦の語り部・大城盛俊氏

 

よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします

 


Viewing all articles
Browse latest Browse all 9761

Trending Articles