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ブログセンターランキングへクリックで応援願います ある作家が裸の王様になった某新聞を辛らつに皮肉った。 そのネット記事を読者から送って頂いたが、裸の王様は何と沖縄の新聞だという。 新聞週間について御託を並べている琉球新報をチェックしてみた。 新聞週間 沖縄の未来も映す鏡に2010年10月15日 <新聞は「社会の木鐸(ぼくたく)・公器」とされる。世人を覚せい、教え導く役割が「木鐸」に込められている。> <ニュースのハンター(狩猟者)からライター(表現者)、そしてエディター(編集者)へ。そんな記者の成長段階に、いま「アナライザー(分析者)」が加わる。>
<新聞は地域の民度を反映すると言われる。「沖縄はどうですか」との問いに、たじろがない紙面づくりを心掛けたい。> ずいぶん偉そうな文言が目に付くが、どこかで見た文章だと思ったら二年前の社説でも同じようなことを書いている。 新聞週間 読者をうならせる紙面に(2008.10.15)
<ニュースのハンター(狩猟者)からライター(書き手)へ、そしてエディター(編集者)へと成長するとされる新聞記者も、最近ではさらにアナライザー(分析者)としての役割も要求されています。>
< 「よらしむべし知らしむべからず」は支配者の論理です。民主主義は「知る」に始まり、「分かる」ことで変化し、「行動する」ことで鍛えられます。> 以下は「輩」は使用禁止用語?小林よしのり氏沖縄講演会」より一部加筆した引用。 ◇ >ニュースのハンター(狩猟者)からライター(書き手)へ、そしてエディター(編集者)へと成長するとされる新聞記者も、最近ではさらにアナライザー(分析者)としての役割も要求されています。 最後に次の一行を加えた方が新報には相応しい。 クリエイター(創造者)からストーリーテラー(捏造者)へ
>「よらしむべし知らしむべからず」は支配者の論理です 沖縄の新聞は、肝心なことは知らしめず、自分のイデオロギーによらしめる・・・、つまり沖縄では、新聞が支配者であるということ。 なるほど沖縄紙は裸の王様だ。 ◇ ・・・と、ここまでは、いつもの長い枕、つまり序章である。 本論は以下引用のお気の毒な作家のお話。 *
小説家としての取材で出くわした、那覇のちょっとした惨劇 「きみは、俺に興味ないんだよな?」
ご存じないかたもいらっしゃるかもしれないが、私の本業は、漫画家である。
25歳の夏からやっているから、もうキャリアも34年になる。
でも近年は、漫画を描かない漫画家ともいわれていて、漫画を描くよりも文章を書いたりテレビに出たりというのが本業になりつつある。NHKのBS2で10数年やっている『BSマンガ夜話』という漫画の話を延々とする番組とか、日本テレビの『真相報道バンキシャ!』なんかに出ている。いや、漫画家を放棄したわけではなく、新しい漫画の連載もいくつか画策しているのだが、どうも漫画以外の依頼の方が多いという困った状況ではあるのだ。
その本業漫画家の私であるが、先日、小説を刊行したのだ。『ファイアーキング・カフェ』というタイトルだ。ますます漫画家ではなくなっていく。確か小説としては、5冊目か6冊目だったと思う。
題材は、那覇に住む本土の人たちである。本土から流れていった男と女の物語なのである。私は6年前から那覇にも事務所を構え、東京の吉祥寺と沖縄の那覇の両方で仕事をしている。そこで見てきた人たちと、それから、過去と現在とがぎりぎりのところで拮抗して存在している今日の那覇のことを描いたのだ。
それで、発売を記念して、那覇のジュンク堂でサイン会とトークショーをやることにした。やっぱり、地元をまず攻めないとね。
那覇ジュンク堂店長のMくんが、地元マスコミに情報を撒いてくれて、地元二大紙のA紙とB紙が記事を載せてくれることになった。もうひとつ、RBCラジオも人気番組のゲストに呼んでくれて、これで情報戦略は完璧である。さすがMくん、ジュンク堂やり手店長である。
まさか、あんなことになるとは、この時点では思っていなかった。
* * *
二大紙インタビュー当日のことである。
二大紙とも、本社までくるようにという話だった。あんまりインタビューを受けるのに新聞社まで呼び出されたことはない。今年の正月に読売新聞の本社にいって藤子不二雄?さんと対談した時には、ハイヤーが迎えにきたしなあ。
でもまあ、今回はこちらからお願いしたのだ。出向いていけばいいのだ。
まず、A紙を訪ねた。
入り口で受け付け嬢に、担当者の名を告げた。彼女は電話をかけ、指示を仰いでいる。
「はい、わかりました。ご案内します」
受話器を置きにっこり微笑むと、彼女は廊下を指差した。
「奧のエレベーターで6階にお上がり下さい」
え……、案内しますってのは、一緒にきてくれるんじゃなくて、その指のことだったのか。
まあ仕方がない。6階にいけば誰かがいるんだろう。
私はエレベーターに乗りこみ、6階で降りた。しかし、そこには誰もいなかった。目の前には応接室があるが、私を待っている人がいる様子はない。では、どこにいけばいいのだ。
私は廊下をきょろきょろと見回し、いくつかの部屋をそっと覗いてみたが、誰も私を迎えてはくれなかった。
うーん、弱ったな。
一番奥の部屋を見たら、大勢の人がいたので、一番手前のデスクの人に、恐る恐る担当者の名前を告げた。
ちょっとお待ち下さいと、その人は私をさっきの応接室まで連れていき、ソファに座らせて去っていった。しばらく待っていると、若い女の子がやってきた。この人が、今回の担当者であった。
さて、私の新刊をテーブルの上に置き、取材が始まった。本はジュンク堂から借りたらしい。
しかし、どうもなんだか変なのだ。質問が的を射ていないというか、二階からシャンプーされているような妙な感触なのだ。
私は単刀直入に聞いてみた。
「ちょっと聞きたいんだけど、きみは俺がなにをやってるどういう人間なのか、知ってる?」
答は、もっと単刀直入であった。
「えへへへ、さっきウィキペディアで調べました」
実に率直である。知らない人にインタビューするのは、そりゃむつかしいだろうな。
私はすぐ諦め、なるべく丁寧に質問に答えて、短いインタビューを終えた。
数日後に出た記事は、新刊のタイトルこそあるものの、書影もないし出版社名も記載されないという杜撰な記事ではあったが、まあイベント日時の告知にはなったのでよかったのである。
さて、次はB紙だ。
私はまたB紙まで足を運んだ。ここにも呼び出されているのだ。
玄関を入った一階受け付けで、私は学芸部の記者の名を告げた。受け付け嬢は、そちらでお待ち下さいと、私に脇の小さい丸テーブルを示した。横でおばちゃんが4人でなにやら騒いでいる。新聞社の見学にでもきたのであろうか。
しばらく待つと、記者らしき人がエレベーターから降りてきた。肩からカメラを提げている。
ということは、どこか社外に出て喫茶店かなにかでインタビューをし写真を撮るのだろうか。
いや、そうではなかった。
記者は丸テーブルの上にカメラをごとりと置き、名前を名乗った。
ここでインタビューするのか!
玄関入ったとこで!
受けつけの脇で!
隣でおばちゃんが騒いでるとこで!
私は今まで、何十回何百回とインタビューを受けてきたが、玄関入った一階の受け付け脇のおばちゃんが騒いでる丸テーブルでインタビューを受けるのは、生まれて初めてである。
正直いって、席を立って帰ろうかと思ったのだが、ジュンク堂店長のMくんがせっかくセッティングしてくれたのだと思い返し、ぐっと我慢したのだ。
名刺交換をし、それから記者が質問をした。
「ええと、本をお出しになったそうですが、どういう本ですか?」
えええーっ、下調べゼロかー!
これから小説を書いた本人にインタビューしようというのに、まったく予備知識ゼロなのか!いや、小説かどうかすら、彼は知らないのだ。
目の前がくらくらしてきたが、私はMくんの顔を思い浮かべ、もう一度ぐぐっと我慢して、地元のミニコミ誌を取り出した。ちょうど出たばかりの号に、私の新刊が書影入りで紹介されていたのだ。
「こういう本です」
私がそれを渡すと、記者はおもむろにそれを読み始めた。
「沖縄のことを書いた本ですか……」
記者がページに目を落としたままで呟く。
ちょっと耐えられなくなってきて、つい本気で記者に聞いてしまう。
「きみは、俺に興味ないんだよな?」
記者は口の中でなにかもごもごと呟いた。
この本はそちらから提供していただけますかと記者がいう。本1冊くらい提供したっていいのだが、まだインタビューもしてないのに、なにをどんな風に聞くのか書いてくれるのかまったくわからないのに、いきなり本をくれというのもどうなんだと思い、いいえと答える。
うーんと記者が宙を睨んでぶつぶついっている。
「こちらからお願いした取材であっても、最低限の下調べをするのは、新聞記者として当たり前のことだと思いますが?」
私がいうと、記者はまたなにかもごもごいっている。
これはもう駄目だ。彼は義務でインタビューにきただけで、私になんの興味もないし、本についても知りたいことなんてないのだ。これではインタビューにならない。
「もうやめよう。時間の無駄だし」
私は立ち上がった。
「俺の名刺を返して」
名刺を渡すと、記者は何事もなかったかのように普通に席を立ち、そのままカメラを肩にかけて、すたすたとエレベーターに向かって歩いていった。
沖縄の新聞記者は、凄い。これでいい給料が貰えるのだ。
私はB紙を出た。
もちろんかなり腹を立てていた私が、ジュンク堂のM店長になんといおうかとB紙前の信号で悩んでいたら、地元コミュニティFMの社長とバッタリ出くわした。
なにしてるんですかと彼が聞くので、ざっと今の話をした。
彼は笑っていうのだ。
以前B紙の記者がうちにポッドキャスティングの取材にきたんだけど、アップルってコンピュータ会社があるのを、その人は知りませんでしたよ。
ああ、新聞記者ってなんて楽な仕事なんだ。たぶんこれほどまで楽なのは彼らだけだとは思うんだけどね。
ただ、沖縄暮らしでこれまで何人も、ヒラ記者から偉い人まで会ってきているが、程度こそ違え、誰に会ってもこれで新聞記者ができるんだなあと感心する。少なくとも沖縄では、新聞記者は世間を見ていなくてもできる仕事なのだ。
* * *
まあそんなわけで、宣伝は微妙だったのだが、RBCラジオがいい扱いしてくれたおかげもあって、那覇ジュンク堂のサイン会とトークショーは大盛況であった。本もたくさん売れて、私も大いに面目を施したのだ。
それにしても、沖縄二大新聞社。あれで大丈夫なのか。この新聞が売れなくなっている時代を、生き残っていけるのか。
数日後に、私の本を紹介してくれた地元ミニコミ誌の編集者と会った時にこの話をしたら、彼は笑っていうのだ。
沖縄の二大紙、あれは〈マス〉コミじゃないですから。
ミニコミ誌にそんなこといわれては、二大紙も立場ないよなあ。
さて、今回の教訓である。
競争のない狭いところで大きな顔をしていると、どんどん周りが見えなくなっていくのだ。王様になった気分で努力を怠っていると、いつか冨は散逸し、貧しく細った存在になってしまうのだ。気をつけようね ◆引用終わり 新聞もここまで劣化したら救いようがない。
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<新聞は地域の民度を反映すると言われる。「沖縄はどうですか」との問いに、たじろがない紙面づくりを心掛けたい。> ずいぶん偉そうな文言が目に付くが、どこかで見た文章だと思ったら二年前の社説でも同じようなことを書いている。 新聞週間 読者をうならせる紙面に(2008.10.15)
<ニュースのハンター(狩猟者)からライター(書き手)へ、そしてエディター(編集者)へと成長するとされる新聞記者も、最近ではさらにアナライザー(分析者)としての役割も要求されています。>
< 「よらしむべし知らしむべからず」は支配者の論理です。民主主義は「知る」に始まり、「分かる」ことで変化し、「行動する」ことで鍛えられます。> 以下は「輩」は使用禁止用語?小林よしのり氏沖縄講演会」より一部加筆した引用。 ◇ >ニュースのハンター(狩猟者)からライター(書き手)へ、そしてエディター(編集者)へと成長するとされる新聞記者も、最近ではさらにアナライザー(分析者)としての役割も要求されています。 最後に次の一行を加えた方が新報には相応しい。 クリエイター(創造者)からストーリーテラー(捏造者)へ
>「よらしむべし知らしむべからず」は支配者の論理です 沖縄の新聞は、肝心なことは知らしめず、自分のイデオロギーによらしめる・・・、つまり沖縄では、新聞が支配者であるということ。 なるほど沖縄紙は裸の王様だ。 ◇ ・・・と、ここまでは、いつもの長い枕、つまり序章である。 本論は以下引用のお気の毒な作家のお話。 *
小説家としての取材で出くわした、那覇のちょっとした惨劇 「きみは、俺に興味ないんだよな?」
ご存じないかたもいらっしゃるかもしれないが、私の本業は、漫画家である。
25歳の夏からやっているから、もうキャリアも34年になる。
でも近年は、漫画を描かない漫画家ともいわれていて、漫画を描くよりも文章を書いたりテレビに出たりというのが本業になりつつある。NHKのBS2で10数年やっている『BSマンガ夜話』という漫画の話を延々とする番組とか、日本テレビの『真相報道バンキシャ!』なんかに出ている。いや、漫画家を放棄したわけではなく、新しい漫画の連載もいくつか画策しているのだが、どうも漫画以外の依頼の方が多いという困った状況ではあるのだ。
その本業漫画家の私であるが、先日、小説を刊行したのだ。『ファイアーキング・カフェ』というタイトルだ。ますます漫画家ではなくなっていく。確か小説としては、5冊目か6冊目だったと思う。
題材は、那覇に住む本土の人たちである。本土から流れていった男と女の物語なのである。私は6年前から那覇にも事務所を構え、東京の吉祥寺と沖縄の那覇の両方で仕事をしている。そこで見てきた人たちと、それから、過去と現在とがぎりぎりのところで拮抗して存在している今日の那覇のことを描いたのだ。
それで、発売を記念して、那覇のジュンク堂でサイン会とトークショーをやることにした。やっぱり、地元をまず攻めないとね。
那覇ジュンク堂店長のMくんが、地元マスコミに情報を撒いてくれて、地元二大紙のA紙とB紙が記事を載せてくれることになった。もうひとつ、RBCラジオも人気番組のゲストに呼んでくれて、これで情報戦略は完璧である。さすがMくん、ジュンク堂やり手店長である。
まさか、あんなことになるとは、この時点では思っていなかった。
* * *
二大紙インタビュー当日のことである。
二大紙とも、本社までくるようにという話だった。あんまりインタビューを受けるのに新聞社まで呼び出されたことはない。今年の正月に読売新聞の本社にいって藤子不二雄?さんと対談した時には、ハイヤーが迎えにきたしなあ。
でもまあ、今回はこちらからお願いしたのだ。出向いていけばいいのだ。
まず、A紙を訪ねた。
入り口で受け付け嬢に、担当者の名を告げた。彼女は電話をかけ、指示を仰いでいる。
「はい、わかりました。ご案内します」
受話器を置きにっこり微笑むと、彼女は廊下を指差した。
「奧のエレベーターで6階にお上がり下さい」
え……、案内しますってのは、一緒にきてくれるんじゃなくて、その指のことだったのか。
まあ仕方がない。6階にいけば誰かがいるんだろう。
私はエレベーターに乗りこみ、6階で降りた。しかし、そこには誰もいなかった。目の前には応接室があるが、私を待っている人がいる様子はない。では、どこにいけばいいのだ。
私は廊下をきょろきょろと見回し、いくつかの部屋をそっと覗いてみたが、誰も私を迎えてはくれなかった。
うーん、弱ったな。
一番奥の部屋を見たら、大勢の人がいたので、一番手前のデスクの人に、恐る恐る担当者の名前を告げた。
ちょっとお待ち下さいと、その人は私をさっきの応接室まで連れていき、ソファに座らせて去っていった。しばらく待っていると、若い女の子がやってきた。この人が、今回の担当者であった。
さて、私の新刊をテーブルの上に置き、取材が始まった。本はジュンク堂から借りたらしい。
しかし、どうもなんだか変なのだ。質問が的を射ていないというか、二階からシャンプーされているような妙な感触なのだ。
私は単刀直入に聞いてみた。
「ちょっと聞きたいんだけど、きみは俺がなにをやってるどういう人間なのか、知ってる?」
答は、もっと単刀直入であった。
「えへへへ、さっきウィキペディアで調べました」
実に率直である。知らない人にインタビューするのは、そりゃむつかしいだろうな。
私はすぐ諦め、なるべく丁寧に質問に答えて、短いインタビューを終えた。
数日後に出た記事は、新刊のタイトルこそあるものの、書影もないし出版社名も記載されないという杜撰な記事ではあったが、まあイベント日時の告知にはなったのでよかったのである。
さて、次はB紙だ。
私はまたB紙まで足を運んだ。ここにも呼び出されているのだ。
玄関を入った一階受け付けで、私は学芸部の記者の名を告げた。受け付け嬢は、そちらでお待ち下さいと、私に脇の小さい丸テーブルを示した。横でおばちゃんが4人でなにやら騒いでいる。新聞社の見学にでもきたのであろうか。
しばらく待つと、記者らしき人がエレベーターから降りてきた。肩からカメラを提げている。
ということは、どこか社外に出て喫茶店かなにかでインタビューをし写真を撮るのだろうか。
いや、そうではなかった。
記者は丸テーブルの上にカメラをごとりと置き、名前を名乗った。
ここでインタビューするのか!
玄関入ったとこで!
受けつけの脇で!
隣でおばちゃんが騒いでるとこで!
私は今まで、何十回何百回とインタビューを受けてきたが、玄関入った一階の受け付け脇のおばちゃんが騒いでる丸テーブルでインタビューを受けるのは、生まれて初めてである。
正直いって、席を立って帰ろうかと思ったのだが、ジュンク堂店長のMくんがせっかくセッティングしてくれたのだと思い返し、ぐっと我慢したのだ。
名刺交換をし、それから記者が質問をした。
「ええと、本をお出しになったそうですが、どういう本ですか?」
えええーっ、下調べゼロかー!
これから小説を書いた本人にインタビューしようというのに、まったく予備知識ゼロなのか!いや、小説かどうかすら、彼は知らないのだ。
目の前がくらくらしてきたが、私はMくんの顔を思い浮かべ、もう一度ぐぐっと我慢して、地元のミニコミ誌を取り出した。ちょうど出たばかりの号に、私の新刊が書影入りで紹介されていたのだ。
「こういう本です」
私がそれを渡すと、記者はおもむろにそれを読み始めた。
「沖縄のことを書いた本ですか……」
記者がページに目を落としたままで呟く。
ちょっと耐えられなくなってきて、つい本気で記者に聞いてしまう。
「きみは、俺に興味ないんだよな?」
記者は口の中でなにかもごもごと呟いた。
この本はそちらから提供していただけますかと記者がいう。本1冊くらい提供したっていいのだが、まだインタビューもしてないのに、なにをどんな風に聞くのか書いてくれるのかまったくわからないのに、いきなり本をくれというのもどうなんだと思い、いいえと答える。
うーんと記者が宙を睨んでぶつぶついっている。
「こちらからお願いした取材であっても、最低限の下調べをするのは、新聞記者として当たり前のことだと思いますが?」
私がいうと、記者はまたなにかもごもごいっている。
これはもう駄目だ。彼は義務でインタビューにきただけで、私になんの興味もないし、本についても知りたいことなんてないのだ。これではインタビューにならない。
「もうやめよう。時間の無駄だし」
私は立ち上がった。
「俺の名刺を返して」
名刺を渡すと、記者は何事もなかったかのように普通に席を立ち、そのままカメラを肩にかけて、すたすたとエレベーターに向かって歩いていった。
沖縄の新聞記者は、凄い。これでいい給料が貰えるのだ。
私はB紙を出た。
もちろんかなり腹を立てていた私が、ジュンク堂のM店長になんといおうかとB紙前の信号で悩んでいたら、地元コミュニティFMの社長とバッタリ出くわした。
なにしてるんですかと彼が聞くので、ざっと今の話をした。
彼は笑っていうのだ。
以前B紙の記者がうちにポッドキャスティングの取材にきたんだけど、アップルってコンピュータ会社があるのを、その人は知りませんでしたよ。
ああ、新聞記者ってなんて楽な仕事なんだ。たぶんこれほどまで楽なのは彼らだけだとは思うんだけどね。
ただ、沖縄暮らしでこれまで何人も、ヒラ記者から偉い人まで会ってきているが、程度こそ違え、誰に会ってもこれで新聞記者ができるんだなあと感心する。少なくとも沖縄では、新聞記者は世間を見ていなくてもできる仕事なのだ。
* * *
まあそんなわけで、宣伝は微妙だったのだが、RBCラジオがいい扱いしてくれたおかげもあって、那覇ジュンク堂のサイン会とトークショーは大盛況であった。本もたくさん売れて、私も大いに面目を施したのだ。
それにしても、沖縄二大新聞社。あれで大丈夫なのか。この新聞が売れなくなっている時代を、生き残っていけるのか。
数日後に、私の本を紹介してくれた地元ミニコミ誌の編集者と会った時にこの話をしたら、彼は笑っていうのだ。
沖縄の二大紙、あれは〈マス〉コミじゃないですから。
ミニコミ誌にそんなこといわれては、二大紙も立場ないよなあ。
さて、今回の教訓である。
競争のない狭いところで大きな顔をしていると、どんどん周りが見えなくなっていくのだ。王様になった気分で努力を怠っていると、いつか冨は散逸し、貧しく細った存在になってしまうのだ。気をつけようね ◆引用終わり 新聞もここまで劣化したら救いようがない。
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