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「あしき隣人」「法治主義通らず」=民主・枝野氏が中国批判
時事通信 10月2日(土)19時10分配信 民主党の枝野幸男幹事長代理は2日午後、さいたま市内で講演し、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐって緊張関係が続く中国を「あしき隣人」と呼び、激しく批判した。
枝野氏は「日本が中国とどういう距離感で付き合うかを確認するいい機会だった」と衝突事件を振り返る一方、「(中国は)あしき隣人だが、隣人は隣人だから、それなりの付き合いをしていかなければならない。米国や韓国のような政治体制や価値観を共有できる国とは違う」と断じた。
さらに「法治主義の通らない国だから、(フジタの社員が)突然拘束されるとかいろんなことがあり得る」と指摘、「そういう国と経済的なパートナーシップを組むという企業はよほどお人よしだ」と語った。 ◇ 「中国はあしき隣人」だって? 福沢諭吉のパクリではないか。 何を今頃偉そうに。 福沢諭吉が既に喝破していた中国の正体を、引用せずもっともらしく講演のネタにするなんて。 枝野氏は内閣から外され、そのショックで目が覚めたのか。 それとも暇ができて福沢諭吉を読み返して見たのか。 福沢諭吉は124年も前、言葉こそ違え中国のことを東アジアの「悪友」と捉え、悪友と付き合うことを戒めているではないか。 そして中国に対しこう結論付けている。 「国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。」 そして今起きている尖閣諸島に関する、中国の理不尽かつ高圧的主張を予見していたかのように、次のようにも述べている。 「国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。」 「(中国は)国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国」と。 国と国の付き合いだけでなく、ビジネス取引でも、中国はハイリスクであることは、今更枝野氏に言われるまでもない。 今回社員が拉致されたフジタも「ハイリスク・ハイリターン」を狙って中国利権に群がった利権漁り集団の一員に過ぎない。 >「法治主義の通らない国だから、(フジタの社員が)突然拘束されるとかいろんなことがあり得る」と指摘、「そういう国と経済的なパートナーシップを組むという企業はよほどお人よしだ」と語った。 そもそも中国の責任である遺棄化学兵器の処理に、日本国民の血税が浪費される事実にどれだけの国民が賛成しているというのか。 いやむしろその事実さえ知らない国民の方が多いだろうが。 まだ拘束されている社員にはお気の毒だが、「あしき隣人」との付き合いを止め、即刻中国から撤退すべきではないか。 福沢諭吉は中国との付き合い方を「国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい」として深入りしないで淡々と付き合うことを進めているが、お人良しの日本は同文同種や一衣帯水の甘言にだまされ大東亜共栄圏の幻を追うことになる。 その結果がどうなったか今更言うまでもない。 さらに戦後は「友好平和交流」の幻想にたぶらかされ、福沢諭吉の諌言をすかっり忘れてしまっていたのだ。 福沢の言葉は「脱亜論」からの引用だが、現在のビジネスマンが中国人気質を分析した下記に抜粋引用した「“同文同種”は虚妄か − 最近中国人気質 ―)」が、中国人とビジネスをするとき参考になるので、とりあえず次の文章も併せて読んでいただきたい。 現在進行中の中国の理不尽な行動を見事に言い当てているではないか。 百年前も現在も法治国家でない中国とビジネスをすることは「ハイリターン・ハイリスク」そのものであり、今回のフジタの人質騒動もハイリスクが露呈したに過ぎない。 孔子様も言っているではないか。 「君子危うきに近づかず」と。 <東は東 西は西
一衣帯水とか同文同種とかいって、もともと日本人には中国にたいする格別の思い入れ、親近感、憧憬がある。論語や唐詩選などの影響から、偉大な文化の先達だという畏怖もある。それに戦時中の侵略行為への贖罪感が重なれば、日本人の中国人への感情はほとんど片想いに近いものになろう。
ところが中国にビジネスでやってきて、一筋縄ではいかない生身の中国人と鼻すり合わせる生活をするようになると、およそ中国人ほど日本人に似て非なるものはない、とつくづく思い知らされ、ストレスに苛まされるようになる。日中の合弁企業で、中国人幹部との間に意見が対立したりトラブルが生じて、日本側代表が帰国してしまうケースがままあるが、これは夫々の商習慣や価値観の衝突であり、いわばカルチャー・ショックでもあろう。私流に解釈すれば、日本人の性善説と性悪説との葛藤である。両説とも発祥の地は中国で、孔孟の教えの性善説が日本に定着し、筍子の性悪説の方は儒教が長年国教であったにもかかわらず、民衆レベルでは中国に根付いてしまった。 中国人の価値観や行動様式をみると、いかにも筍子の説くように本来人間の性は悪であり、それを矯めるために道徳や宗教があり、それでも人間は悪いことをするから罰を伴なう法ができたのだとしか思えない。その法の強制力をもってしても悪を根絶するどころか、上は政府・党の幹部下は警官や小役人に至るまで、悪の華が絢爛と咲き誇っているのが現在の中国である。 伝統的に中国は、個人主義や実利主義の強い国柄で、それが毛沢東によって一時冬眠を強いられたが、?小平によって一挙に復活した。共産党治世三十年は、四千年の歴史のなかではうたかたの白昼夢といってよく、中国人本来の“私あって公のない”民族性はそう簡単に変わるものではあるまい。 日本人には、中国人は同文同種だから価値観や行動様式も同じではないか、という短絡な思考におちいる傾向があるが、これはひとつには、相手も同じ価値観を共有している、と思いこむ日本人独特の「甘え」にも原因があろう。そしてこの「甘え」こそ、性善説の母胎となった日本農耕民族共同体が生みだしたものである。(ちなみに日本は性善説が通用する世界でも稀な国である) 中国人の価値観や行動様式は、白人のそれと少しも変わらない。アメリカでは、白人化した日系人のことをバナナというそうだが、中国人もバナナとみて差し支えない。同文同種といった錯覚や虚妄にいつまでも囚われていては、この性悪説で筋金の入ったしたたかな民族とのお付き合いはできない。日本人と中国人がいかに異なっているかをまず知るとういうことが、両民族の相互理解のベースとなることを素直に認めるべきであろう。(“同文同種”は虚妄か − 最近中国人気質 ―)> 【おまけ】福沢諭吉「脱亜論」
< シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。 この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。 、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。 すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。 これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。 実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。 日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。 ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。 この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。 悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。 私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。 (明治18年3月16日)≫(福沢諭吉 「脱亜論」抜粋)
この文を124年も前の明治18年に書いた福沢の慧眼には驚きだが、 福沢諭吉先生は、まるで 「おめーらのやる事は全てお見通しだ!」 とでも怒っているようだ。 「日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。」 やはり福沢諭吉は偉かった! よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします ブログセンターランキングへクリックで応援願います
時事通信 10月2日(土)19時10分配信 民主党の枝野幸男幹事長代理は2日午後、さいたま市内で講演し、尖閣諸島沖の中国漁船衝突事件をめぐって緊張関係が続く中国を「あしき隣人」と呼び、激しく批判した。
枝野氏は「日本が中国とどういう距離感で付き合うかを確認するいい機会だった」と衝突事件を振り返る一方、「(中国は)あしき隣人だが、隣人は隣人だから、それなりの付き合いをしていかなければならない。米国や韓国のような政治体制や価値観を共有できる国とは違う」と断じた。
さらに「法治主義の通らない国だから、(フジタの社員が)突然拘束されるとかいろんなことがあり得る」と指摘、「そういう国と経済的なパートナーシップを組むという企業はよほどお人よしだ」と語った。 ◇ 「中国はあしき隣人」だって? 福沢諭吉のパクリではないか。 何を今頃偉そうに。 福沢諭吉が既に喝破していた中国の正体を、引用せずもっともらしく講演のネタにするなんて。 枝野氏は内閣から外され、そのショックで目が覚めたのか。 それとも暇ができて福沢諭吉を読み返して見たのか。 福沢諭吉は124年も前、言葉こそ違え中国のことを東アジアの「悪友」と捉え、悪友と付き合うことを戒めているではないか。 そして中国に対しこう結論付けている。 「国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。」 そして今起きている尖閣諸島に関する、中国の理不尽かつ高圧的主張を予見していたかのように、次のようにも述べている。 「国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。」 「(中国は)国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国」と。 国と国の付き合いだけでなく、ビジネス取引でも、中国はハイリスクであることは、今更枝野氏に言われるまでもない。 今回社員が拉致されたフジタも「ハイリスク・ハイリターン」を狙って中国利権に群がった利権漁り集団の一員に過ぎない。 >「法治主義の通らない国だから、(フジタの社員が)突然拘束されるとかいろんなことがあり得る」と指摘、「そういう国と経済的なパートナーシップを組むという企業はよほどお人よしだ」と語った。 そもそも中国の責任である遺棄化学兵器の処理に、日本国民の血税が浪費される事実にどれだけの国民が賛成しているというのか。 いやむしろその事実さえ知らない国民の方が多いだろうが。 まだ拘束されている社員にはお気の毒だが、「あしき隣人」との付き合いを止め、即刻中国から撤退すべきではないか。 福沢諭吉は中国との付き合い方を「国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい」として深入りしないで淡々と付き合うことを進めているが、お人良しの日本は同文同種や一衣帯水の甘言にだまされ大東亜共栄圏の幻を追うことになる。 その結果がどうなったか今更言うまでもない。 さらに戦後は「友好平和交流」の幻想にたぶらかされ、福沢諭吉の諌言をすかっり忘れてしまっていたのだ。 福沢の言葉は「脱亜論」からの引用だが、現在のビジネスマンが中国人気質を分析した下記に抜粋引用した「“同文同種”は虚妄か − 最近中国人気質 ―)」が、中国人とビジネスをするとき参考になるので、とりあえず次の文章も併せて読んでいただきたい。 現在進行中の中国の理不尽な行動を見事に言い当てているではないか。 百年前も現在も法治国家でない中国とビジネスをすることは「ハイリターン・ハイリスク」そのものであり、今回のフジタの人質騒動もハイリスクが露呈したに過ぎない。 孔子様も言っているではないか。 「君子危うきに近づかず」と。 <東は東 西は西
一衣帯水とか同文同種とかいって、もともと日本人には中国にたいする格別の思い入れ、親近感、憧憬がある。論語や唐詩選などの影響から、偉大な文化の先達だという畏怖もある。それに戦時中の侵略行為への贖罪感が重なれば、日本人の中国人への感情はほとんど片想いに近いものになろう。
ところが中国にビジネスでやってきて、一筋縄ではいかない生身の中国人と鼻すり合わせる生活をするようになると、およそ中国人ほど日本人に似て非なるものはない、とつくづく思い知らされ、ストレスに苛まされるようになる。日中の合弁企業で、中国人幹部との間に意見が対立したりトラブルが生じて、日本側代表が帰国してしまうケースがままあるが、これは夫々の商習慣や価値観の衝突であり、いわばカルチャー・ショックでもあろう。私流に解釈すれば、日本人の性善説と性悪説との葛藤である。両説とも発祥の地は中国で、孔孟の教えの性善説が日本に定着し、筍子の性悪説の方は儒教が長年国教であったにもかかわらず、民衆レベルでは中国に根付いてしまった。 中国人の価値観や行動様式をみると、いかにも筍子の説くように本来人間の性は悪であり、それを矯めるために道徳や宗教があり、それでも人間は悪いことをするから罰を伴なう法ができたのだとしか思えない。その法の強制力をもってしても悪を根絶するどころか、上は政府・党の幹部下は警官や小役人に至るまで、悪の華が絢爛と咲き誇っているのが現在の中国である。 伝統的に中国は、個人主義や実利主義の強い国柄で、それが毛沢東によって一時冬眠を強いられたが、?小平によって一挙に復活した。共産党治世三十年は、四千年の歴史のなかではうたかたの白昼夢といってよく、中国人本来の“私あって公のない”民族性はそう簡単に変わるものではあるまい。 日本人には、中国人は同文同種だから価値観や行動様式も同じではないか、という短絡な思考におちいる傾向があるが、これはひとつには、相手も同じ価値観を共有している、と思いこむ日本人独特の「甘え」にも原因があろう。そしてこの「甘え」こそ、性善説の母胎となった日本農耕民族共同体が生みだしたものである。(ちなみに日本は性善説が通用する世界でも稀な国である) 中国人の価値観や行動様式は、白人のそれと少しも変わらない。アメリカでは、白人化した日系人のことをバナナというそうだが、中国人もバナナとみて差し支えない。同文同種といった錯覚や虚妄にいつまでも囚われていては、この性悪説で筋金の入ったしたたかな民族とのお付き合いはできない。日本人と中国人がいかに異なっているかをまず知るとういうことが、両民族の相互理解のベースとなることを素直に認めるべきであろう。(“同文同種”は虚妄か − 最近中国人気質 ―)> 【おまけ】福沢諭吉「脱亜論」
< シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど早く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。 この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。 、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。 すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。 これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。 実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。 もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。 日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。 ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。 この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。 悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。 私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。 (明治18年3月16日)≫(福沢諭吉 「脱亜論」抜粋)
この文を124年も前の明治18年に書いた福沢の慧眼には驚きだが、 福沢諭吉先生は、まるで 「おめーらのやる事は全てお見通しだ!」 とでも怒っているようだ。 「日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。」 やはり福沢諭吉は偉かった! よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします ブログセンターランキングへクリックで応援願います