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陛下に火炎瓶を投げた男が名護市会議員に

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 よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします   ブログセンターランキングへクリックで応援願います                           ◇ 市民活動家上がりで君が代斉唱を拒否した男が総理大臣に再選された。 その一方で全国の注目を浴びた名護市議会選では過激派学生上がりで今上陛下に火炎瓶を投げつけた男が市会議員になった。 昨日の民主党代表選はどちらが勝っても共食いの様相はまぬかれえず、早めに解散総選挙に追い込まれて欲しい。 菅首相についてはこの程度に留めて、昨日は軽く触れた「天皇に火炎瓶を投げた市会議員」について書いてみる。 13日の名護市選挙を報じる沖縄タイムスを一部抜粋し再度引用する。 移設ノーに追い風 名護市議選
「普天間に終止符打つ」比嘉祐さん 容認から反対
 2010年9月13日   (略)      「民意示された」
当選の反対派3人  名護市議選では、米軍普天間飛行場の移設問題で、辺野古への移設反対の先頭に立つ人たちが相次いで当選を決めた。  東恩納琢磨さん(49)は、2006年の同市議選で1票差で次点だったが、県議会選への現職市議の出馬を受け、繰り上げ当選。市長支持派の過半数という結果に「市長選、市議選と民意は示された。『基地は要らない』。これは名護市からのメッセージと国は理解してほしい」と訴えた。ヘリ基地反対協議会の仲村善幸さん(63)は2期目の当選。仲村さんは「雇用、医療、福祉。基地問題の解決を抜きにして、そのほかのまちづくりはできない。市民が分断された14年の間、名護市民が自覚し始めた結果だと思う」と語った。  新人の川野純治さん(55)((★引用者注)は、27番目最後の議席に滑り込んだ。熊本生まれ鹿児島出身。地縁・血縁はなかったが、一貫して基地建設反対を訴えた。「名護市は生まれ変わる。稲嶺市政を支えて基地問題を解決したい」と意欲を示した。 (略) 名護市中山当選を決め支持者と万歳する川野純治氏(中央)=13日午前0時50分 ★注:今上天皇が皇太子時代にひめゆりの塔を訪れた際、火炎瓶を投げつけ有罪判決を受けた人物。 沖縄に住みついて県民を洗脳する社民党系活動家。                       ◇ 沖縄タイムスはサラッと流しているが、記事で筆者が赤字で強調した川野純治氏はわずか19票の差で滑り込み当選した筋金入りの活動家である。 沖縄タイムスによる略歴を見るとこうなっている。 <川野純治 55歳 会社員 名護市中山1029の13  北九州市立大学大学中退> だがこの人物の略歴で削除されている大きな事実は、川野氏が「ひめゆりの塔事件」の実行犯の一人であるということである。 ひめゆりの塔事件は、75年7月17日、沖縄国際海洋博覧会開会式に出席するため沖縄を訪問した皇太子(今上天皇)ご夫妻がひめゆりの塔を参拝した際、目の前の壕の中に潜んでいた訪沖反対の過激派2人に火炎瓶を投げつけられたがご夫妻は無事だった。 当時20歳の過激派学生だった川野氏はその実行犯の一人だったのだ。 「本土サヨク活動家」を自称するきゃすっちさんのブログによると、沖縄が本土復帰する1972年前後から、逃げ場を失った本土サヨク活動家が沖縄に流入、移住し沖縄住民を扇動し始めたという。 川野氏もその後沖縄に住み着いて「一坪地主」の地位を手に入れ、「沖縄」を売り物にした活動家として、全国各地で講演活動などをしていたが今回、名護市会議員の地位を手に入れたことになる。 誰でも20歳前後の「若気の至り」のひとつや二つは思い当たるものだが、この川野という人物は50歳半ばにしても、今上陛下に火炎瓶を投げたことを自慢にし左翼集会で天皇制打倒を叫んでいるようだ。 このような移住者こそ沖縄にとってもっとも」迷惑な人物なのだが、それが議員に当選とは、情けなくなってしまう。 良識ある名護市民の方は次のように嘆いておられる。(コメント欄より) <尖閣の問題はさておいて「辺野古移設困難!」と、名護市議選の結果をさも喜ばしいことかのように報道してたマスコミにうんざりです‥。
それ以上に、市長や反対派の市議らのにこやかなコメントにげんなり‥。
政府には「じゃあ、辺野古を諦めて普天間固定化とします。名護は振興策のお金を全額返してください」ぐらいのことを言って欲しい…。
(↑すみません、宜野湾市民の方々…)> ■陛下に火炎瓶を投げた男が名護市議に当選!■ ⇒共産主義者同盟(統一委員会)
4・29「昭和の日」反対! 大阪集会が開催される
<沖縄から沖縄・一坪反戦地主会北部ブロックの川野純治さん
講師の川野さんは一九七五年の皇太子沖縄訪問に対し、 ひめゆり白銀闘争を敢行した当事者> ひめゆりの塔事件の起きた1975年は、沖縄では過激派学生のサヨク運動が盛んだった年で、琉球大学に入学した自衛隊員が過激派学生の反対運動で自主退学に追い込まれたり、成人式に参加の自衛隊員が参加を拒否されたり、また民間アパートの入居もサヨク活動家の反対により拒まれるという異常な時代であった。 【動画】38 - ひめゆりの塔事件 - 1975
http://www.youtube.com/watch?v=uJkPdpJ-qYs これらの事件を琉球新報は次のように報じていた。 1975年(昭和50年)沖縄県内十大ニュース 1975年12月28日   琉球新報    
(略) 【3】ひめゆりの塔火炎びん事件(7月)
 海洋博の名誉総裁として開会式列席のため妃殿下とともに初訪沖された皇太子殿下は7月17日、ひめゆりの塔を参拝中、壕から出た2人の男に火炎びんを投げつけられた。これより先、糸満市内の病院前でも、ご夫妻の車めがけて角材などが投げつけられた。空前の警備体制下で起きた同事件で、幹部が処分された。 (略) 【8】自衛官の琉大入学阻止問題(4月)
 1975年3月、琉大短期大学部に自衛官(20)が合格した。しかし、学生自治会や労働団体は「自衛隊は憲法違反。自衛官の入学によって県民の反戦感情を崩すことを狙った宣ぶ工作だ」と反発。「入学許可は憲法、教育基本法などに沿ってなされた」とする大学側との間で対立が続いた。そのため入学が許可された自衛官は登校ごとに受講を阻止される始末。坂田防衛庁長官も「入学阻止は人権侵害で中央で対処する」と強行姿勢をみせた。結局、自衛官は76年3月に退学した。                            ◇   名護市といえば辺野古移設の鍵を握る自治体だと全国に喧伝されているが、名護市の大半の人口が集中する市街地は、西海岸に(東シナ海) 面し、 その一方で、問題の辺野古地区は山ひとつ越えた東海岸(太平洋)に)面している別世界のようなものである。   筆者のように昔から名護界隈を知るものにとって、「きれいな海を埋めるな」とか「ジュゴンを守れ」なんて言葉は復帰後、川野氏のようなサヨク扇動家が持ち込んだ左翼フレーズとしか感じない。   何しろつい最近まで名護湾を血に染めるイルカ漁は、名護の風物詩とさえ言われ、現在でも名護の居酒屋ではイルカ料理を売りモノにしているくらいだ。   それが当然とって付けたように、見たこともない「ジュゴンを守れ」といわれても違和感を感じるのだが、川野氏のような大声を出す」活動家に引きづられるのも沖縄人の弱さなのだろう。   イルカどころか以前はジュゴンも食べていたくらいだが、食した人の話によるとあまり美味くないとのこと。   一度食ってみてー!   ちなみに名護市に住む娘夫婦は政治には全く関心が無く、今回、辺野古騒動が起きるまで辺野古地区が名護市の一部だったは知らなかったという。   そりゃそうだろう。   山を一つ越して行く太平洋に面した辺野古は、生活感覚としては全く別世界にしか感じないというのだから。   名護市街地の住民は辺野古住民のように直接の基地被害とは縁のない生活をしているので、「基地反対」も気軽に言えるが、   肝心の辺野古地区の民意は「移設容認」である。   よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします   ブログセンターランキングへクリックで応援願います                       

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