よろしかったら人気blogランキングへ クリックお願いします ■世界日報 7月9日(火)掲載 【連載】貶められた旧日本兵 「援護法」に隠された沖縄戦の真実(2)
壕の提供/「軍の命令」記入で援護対象に
昭和31年(1956年)、戦闘参加者の範囲を決定するため、厚生省援護課の職員らが沖縄に派遣され、沖縄戦の実態調査を行った。琉球政府社会局が昭和33年に発行した援護法関係出版物「援護のあゆみ」によると、沖縄県遺族連合会が職員と協議会を重ね、集団自決や壕(ごう)の提供などの事例についても援護法が適用されるよう強く求め、厚生省に陳情した。
戦争の実態調査や要望を踏まえて厚生省援護課は、昭和32年7月、援護法の適用例を20種の分類で示した「沖縄戦の戦闘参加者処理要項」を発表した。これまであいまいだった「戦闘参加者」の定義がこれによって明確になった。「戦闘参加者」の分類は以下の通りだ。
?義勇隊?直接戦闘?弾薬・食糧・患者等の輸送?陣地構築、?炊事・救護等雑役?食糧提供?四散部隊への協力?壕の提供?職域(県庁職員報道)関係?区(村)長としての協力?海上脱出者の刳船(くりぶね)輸送?特殊技術者(鍛冶屋)?馬糧蒐集(しゅうしゅう)?飛行場破壊?集団自決?道案内?遊撃戦協力?スパイ嫌疑による斬殺?漁撈(ぎょろう)勤務?勤労奉仕作業。
20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。
しかし、当時の厚生省、琉球政府、市町村、そして、遺族という四者の共同作業により、6歳未満にも援護法が適用されるようになった。
金城和信遺族連合会会長(当時)は「援護のあゆみ」の中で、「遺族は勿論全住民が一体となってこれら戦没者の報国の精神に充二文(ママ)に応えるべく全機能を上げて一人でも時効失効なき様処理に万全を期さなければならないと強く日本政府及び琉球政府に訴えるものであります」と述べている。
実際に「戦闘参加者」として援護法の申請をした事例を示す、沖縄県公文書館に保管されている「現認証明書」(請求時の障害が公務上の傷病であることを認めることができる書類)の文面を引用する。
<右は昭和二十年六月二十日沖縄本島摩文仁村字摩文仁付近の戦闘間に於て球部隊司令部の下士官兵数名に避難壕を立ち退くよう要請され止むなく同壕を戦闘員のため提供して立ち退き、他の壕を求めて移動する際、至近に砲弾炸裂し、全身に砲弾破片創を負い、即死したことを同一行動中に確認致しましたのでその事実を証明します。
一九六〇年二月二十日>
沖縄県遺族連合会のある幹部は「軍に積極的に協力して戦死したという表現でも厚生省から突っ返されました。『軍の命令によって』と書き込んで再送して受理されました」と振り返る。そこで、現認証明書に「軍の命令・要請による」という虚偽事実の記入をしたが、そのうち大半が「壕の提供」に関する内容だったという。
(「沖縄戦の真実」取材班)
☆
> 20項目のいずれかに該当すれば、一般住民であっても軍属・軍人と同様に「戦闘参加者」として認定され「準軍属」に扱われた。その場合、軍命令に従い、「自己の意思」で戦闘に参加・協力したか否かだけが問われることとなった。当初は「小学校適齢年齢6歳以上」とされた。
当時の厚生省は、本来なら民間人には適用されないはずの援護法を、可能な限り、というより「拡大解釈」をしてまで沖縄住民に適用しようとした。 そこに「軍命捏造」という意図せぬ結果が生じ、後に反日左翼勢力の付け込む隙を与えることになる。
政府(厚生省)は、軍命と明記されていない申請書には「軍命」という不実(嘘)を書くように暗示する「書き換え」の指導をした。
例を挙げると、厚生省の1960年「戦闘参加者に関する書類」に、次のような記載がある。
■昭和34年(‘59年)10月12日付け 厚生省引揚援護局未帰還調査部第四調査室長から⇒琉球政府社会局援護課長へ 「戦闘協力により死亡したものの現認証明について」
≪別紙記載の戦斗協力者に対し、遺族より弔慰金の請求をされましたが、戦斗協力内容が消極的に失すると審査課より返却されたので、死亡者は要請(指示)事項のみに終始したのではなく、当時の戦況から判断して現認証明事項欄記載の如きこともあったものと推定されるのでその旨、審査課に回答した処、死亡の原因が回答のような、積極的な戦斗協力によるものであれば現認証明書を添付されたいとのことですが、現認証明欄の如き事項は、当時何人かが現認していると思われるがそうであったら然るべく御とりはからい願います≫
厚生省から琉球政府側への「指導」も1959年ごろまでは、「積極的な戦闘協力」などと曖昧な指導をしているが、沖縄住民の援護金申請は全て受理してあげたい、という善意が働き、厚生省の「指導文書」も1962年になると、以前に比べてあからさまな「軍命捏造」の指導が目立ってくる。
その例がこの文書だ。
■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」(援護課調査係)
「戦闘参加者の申立書」に対して、厚生省から⇒琉球政府へ
≪「要調査事項」昭和20年5月10日食糧を求めるため部隊に行ったのは、軍命令か 申請書の記述ではその点が不明であるから解明されたい≫
と軍命の有無を重視するよう明確に指導している。
さらに具体的に個々の「戦闘協力者」を、「軍命による」と記入するように、その時の状況に至るまで「指導」した例が、次の例である。
これは現在のお役所の常識から考えれば、「越権行為」といわれても仕方がない「指導」である。
「現認証明書を要する戦闘協力者氏名」の一覧
■当時50歳の県庁職員についての「指導」
≪壕生活の指導並びに避難誘導のため摩文仁村に派遣されたが、摩文仁村摩文仁で避難誘導任務遂行中砲弾の破片により胸部に受傷戦死したという現認証明に対して、「上記の理由では積極的戦闘協力とは認め難いとの審査課の意見であるが、積極的戦闘協力の事実はないか。 例えば軍命により弾薬運搬又は食糧の輸送の指導若しくは陣地構築の指導等の如きものとか、公務遂行中殉職というが、公務の内容はなにか軍の命令により何か積極的戦闘協力はしたのか・・≫
などと具体的に書き換えの仕方を指導している。
■当時9歳の学童についての「指導」
≪艦砲弾が激しいため殆どの壕が破壊されたので作戦上壕を提供せよと命じられたので、軍に協力して他の避難場所を探している際、敵の小銃弾で頭部を撃たれ治療も出来ず出血多量で数時間後に死亡した≫
という表現パターンで、書き換えが行われている。
■1962年1月「戦闘参加者に関する書類綴」
認定保留者=座間味村 明治9年生まれ、昭和20年3月28日「隊長命令による自決」という内容で戦闘参加者として認定されている。
>「隊長命令による自決」
ここで座間味村の隊長は梅澤裕氏と指名されたことになり、後に反日左翼勢力が「残虐な日本軍」と主張する根拠となる。
■1966年「援護関係表彰綴」
宮村幸延座間味村総務課長の功績調書
宮村幸延座間味村総務課長は、1957年8月、慶良間戦に於ける集団自決補償のため上京 1963年10月集団自決6歳未満から0歳児まで(148名)準軍属に決定と記されている。
宮村幸延氏は、連載の第6回目に登場するが、沖縄側は琉球政府社会局援護課のみならず、援護金申請書の直接の窓口である座間味村の援護係の宮村氏が直接上京し、厚生省と掛け合って援護金受給に大きな功績を成し遂げている。座間味村役所には宮村氏の「功績を讃える表彰状があるという。 幸延氏は梅沢氏に「侘び状」を書いた事で、とんだ騒動に巻き込まれることになる。その顛末は連載第6回をご期待下さい。
国(厚生省)、琉球政府援護課、各市町村の援護係そして遺族会のメンバーの4者が一致協力し、祖国防衛の戦ため、軍人・軍属に負けずとも劣らない戦いをした沖縄の民間人に対する援護金支給の努力をしたのである。
その結果、1981年には6歳未満への援護法の適応が認められることになる。
☆
【おまけ】
沖縄集団自決の真実
「沖縄人の見た沖縄戦」?
――座間味戦の裏側にあるもの――
ルポライター(沖縄県国頭郡出身) 冨村順一(大阪市西成区77歳)
平成20年1月10日 昭和史研究所会報 第129号
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残されたわずかな時間の中で歴史の証言を収集記録し、後世に伝えます。
これは本来国家のなすべき事業なのです。
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〔解説〕
平成19年11月9日、大阪地裁。大江・岩波裁判の日。
傍聴券を求める人々の中に車椅子の人物がいた。
この人が配布したA4判3頁の文書は、梅沢・赤松両元隊長の無実を訴え、
大江健三郎に謝罪を求める切々率直な内容のものであった。
この人こそ誰あろう。
かつては左翼反戦平和運動に携わりながら、梅沢裕隊長の「自決命令」の
なかったことを知るや、翻然梅沢氏弁護の運動を開始し、それが宮崎初枝
女史の告白を決意させ、また神戸新聞に「梅沢隊長の命令なし」の記事
を掲載させるきっかけをつくった冨村順一氏(『隠された沖縄戦記』などの著者)だ。
いわば梅沢隊長の冤が晴れる大きな一歩を刻んだ富村氏の正直で義に
強い人柄に、かねて中村は敬服していたが、大江裁判の折に氏の配布した
文書を読んで感銘を新たにし、氏に二、三の質問を含んだ書簡を送った。
それに対して11月30日、氏からテープレコーダーに録音した
委曲を尽した返事を頂戴した。貴重な体験と証言を含む内容なので、
一部を割愛して掲載させて頂くことにした。(中村)
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〔註〕「中村」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E7%B2%B2
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★以下、富村順一氏のテープおこしの本文です。★
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中村先生、今晩は。
先生からの御手紙を拝読し、直ぐに手紙を出そうと思いましたが、
何分にも手足が不自由で遅れたこと申し訳ありません。
話は違いますが、近所に梅南座という芝居小屋があります。
そこの主は沖縄出身の渡口さんというお婆ちゃんです。
このお婆さんは、娘さんやお孫さんも毎日のように私の家に来て
よく私の面倒を見てくれます。
そのような方ですから、私は先生から来た御手紙を劇場のママに見せました。
ママが「返事を書いたのか」と聞くので、ヘルパーに代筆を頼んで、
毎日四、五枚づつ書いていると話したところ、「このように大切なことは
ヘルパーの代筆では駄目だ。
貴方は手足は不自由でも口は利ける。
録音を取って生の声を包み隠さず、テープで差し上げなさい」と仰有った
ので、「テープレコーダーがありません」と話したところ、ママが
「じゃ、買えばいいんじゃないか」と仰有ったので、「そのようなお金は
ありません」と云ったところ、「じゃ、金は私が出すから録音テープで
自分の気持を先生に伝えた方がいい」と仰有って金を置いて行って下さった
ので早速テープレコーダーを買い、録音で先生に座間味戦記のことを
お伝えしようと思っています。
大城明さんの自殺
私はここ十四、五年間、大衆の前へ出たことがありません。
故に梅沢さんはじめ私の知ってる方には、
私が死んだという噂が飛んでいる現在です。
何故、そのような私が今頃、大江裁判傍聴に行こうと思ったのか、
訳があります。
一昨年(平成17年――中村)の10月1日、大阪西成区の津守公園で
大城明さんという沖縄出身の方が自殺いたしました。
彼は若い頃、ベトナム戦争反対、基地反対、部落開放運動なんかに
首を突っ込んでました。また非常に読書家でもありました。
彼が自殺一週間前、突然私の家に来たのです。私の家に来るなり跪いて
「富村さん、本当に申し訳ありませんでした。
富村さんが練馬区の元町公園で二匹の犬と野宿しているときに、
夜六人の仲間と一緒に襲い、二匹の犬を殺し、富村さんに怪我をさせ、
富村さんが車椅子の生活をするようになったのは私達です。
私がそのリーダーでした。
その理由は、富村さんが書いた「座間味戦記 / 梅沢隊長は生きている
――自決命令はなかった」という『隠された沖縄戦記』を読みました。
沖縄には沖縄の偉い大学の先生や文化人が書いた『鉄の暴風』、
沖縄県教職員組合が書いた『沖縄戦の真相』、『沖縄県史』がある。
それらは何れも自決命令で、梅沢隊長は従軍慰安婦と爆死したことになっている。
だが富村さんは「隊長は生きている」と云う。
富村さんは右翼から金を貰って嘘の本を書いたに違いない。
このような沖縄人はいない方がいい。
二度と本を書けないようにしてやろうと、富村さんを襲い、袋叩きにしたのは
私達で、そのリーダーが私でした。本当に申し訳ありませんでした」
と云いながら鞄から一冊の本を取り出しました。
宮城晴美さんが書いた『母の遺したもの』という本でした。
十年以上も本と縁がなく、新聞も余り読みませんでしたので、
この本が出ていることも全く知りませんでした。
その本をテーブルの上に置き、「梅沢さんは自決命令を出していない、
ましてや、死んだといわれた梅沢さんが健在であることを知りました
。自分たちは取り返しのつかないことをしてしまった。
富村さん、本当に申し訳ありませんでした」と跪いて詫びたのです。
余りに突然のことで、私も宮城晴美さんが本を出したことも知らず、
どのように大城君に返事をしていいやら、言葉を失い、黙っていると、
大城君が
「富村さん、近い中に私は本を読めない所へ行くんだ。
富村さん、この眼鏡はフランス製です。いい眼鏡です。
もしレンズが合わなければ、レンズだけ替えてお使い下さい」
と眼鏡をテーブルの上に置きました。
彼は読書家でもあったので、私は「じゃあ、お前は好きな本を読まないのか」
と云ったところ、「本を読めない所へ行くんだ」と――。
私はその意味をすぐには理解できませんでした。
それから一週間ほど経って、彼の友人が私の家に訪ねてきました。
「実は大城明さんが自殺しました。
彼の部屋に富村さん宛の手紙がありました」と云いました。
彼はその手紙で何度も何度も「申し訳ありませんでした」と詫びていました。
またお母さん達にも、富村さんに迷惑をかけたから、お詫びするようにと
遺言があったようです。
その後、大城君のお母さんやお姉さんからも電話がありました。
「申し訳ない。何か困ったことがあったら連絡下さい。
可能なことはして上げます」ということでしたが、
私は「何も困っていません」と申し上げてお断りいたしました。
私は大城さんの自殺を考へ(ママ)た場合、まだ沖縄戦は終わって
ないんだと思うと同時に『鐵の暴風』や沖教組が捏造した
座間味戦記を書かなければ、このような自殺は出なかった訳です。
故に私は仮(たと)え手足が不自由でも、車椅子で外へ出かけることが出来る、
今度の大江裁判でも傍聴して、加納であれば事実を訴えようと思い、
裁判所へ行きましたが、残念ながら、傍聴出来ず帰ってきました。
その後、大阪の関係者から二回ほど話を聞きに来ましたが、初対面であり、
どのような方かよく分からないので一部始終は話していません。
だが、先生のお手紙を読み、劇場のママからも、知ってること思ってる
ことを全部包み隠さず先生にお伝えするようにと云われておりますので、
私も知ってることを包み隠さず先生にお話しようと思います。
(つづく)
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沖縄戦「集団自決」の謎と真実
秦 郁彦
PHP研究所
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