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慰霊の日に、決まって出没する宮城晴美氏

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毎年夏が来ると沖縄のメディアは集団発狂をする。

6月23日の慰の日から8月15日の終戦記念日にいたる数ヶ月間、沖縄の新聞から沖縄戦関連の記事が消えることは無い。

記事とはいっても、粛々と沖縄戦の事実を戦没者の鎮魂記事として報道するならともかく、一連の沖縄戦の記事は「発狂」といういささか下品な表現でしか、その狂乱報道を言い表すことは出来ない。

一面トップや社会面トップ、時としては2ページに渡る狂ったような大見出しを、当日記のような個人ブログが表現するとしたら、「発狂」という下品な言葉でも使わなければ仕様が無い、・・・いや「発狂」でも言い足りないくらいだ。

そして慰霊の日前後になると必ず登場し、講演会などでメディアに顔をみせるのが宮城晴美氏である。

最近しばらくその名を聞かないと思っていたら、24日のQABテレビでお仲間の高嶋伸欣琉球大学名誉教授と2人の顔を見たので、調べたらこんな催しに参加していたようだ。

沖縄大学 教養講座で平和教育を考える QABテレビ
これからの平和教育のあり方について考える教養講座が、6月24日、沖縄大学で開かれました。基調講演で、沖縄大学の加藤彰彦学長は、戦争の本質が国家に服従し、自分の判断力を失くしていくことにあると指摘。

「受験戦争」や「就職戦線」という言葉など、日常生活にも戦争の論理が浸透しているとして、自分自身で考え、一緒に語り合えることが保障される社会をつくることが、これからの平和教育を考えていく上で、重要だと訴えました。

また、沖縄固有の文化や歴史が、廃藩置県やアメリカ統治によって奪われ続けてきたとして、それらをどのように取り戻し、次の世代に継承していくかが今後の沖縄の課題だと話しました。

            ☆

>「受験戦争」や「就職戦線」という言葉など、日常生活にも戦争の論理が浸透しているとして

本土で食い詰めた左翼学者の掃き溜めが沖縄の大学と相場が決まっているが、加藤学長は「平和学習」の一環として戦前のように言葉狩りでもするつもりなのか。

「受験戦争」⇒「お受験の争い」

「就職戦線」⇒「お就職の争い」

とか。(爆)

沖縄大学の土曜教養講座には筆者も何度か参加した事があるが、今回は多忙に紛れてビッグトゥーが参加する500回記念講座だとは知らず参加できなかった。

沖縄大学のHPから内容を拾うと、こんなことを行ったようである。

*********************第497回沖縄大学土曜教養講座********************

           土曜教養講座500回記念〈復帰40年〉シリーズ  
          日本平和学会2012年度春季研究大会開催校企画 
             「沖縄における平和教育の課題と展望」



【日 時】6月24日(日)14:30〜17:00(14:00会場)

※当初6月23日(土)を予定しておりましたが、諸事情により6月24日(日)に日程を変更して開催いたします。
 急な変更でご迷惑をお掛けいたしますがご了承下さいますよう宜しくお願いいたします。

【会 場】沖縄大学 本館 1階 102教室

【第一部】記念講演

     「沖縄の平和と子ども」 加藤 彰彦(沖縄大学学長)

【第二部】シンポジウム

     「沖縄平和教育の新地平」 高嶋 伸欣(琉球大学)

     
     司 会:里井 洋一(琉球大学)

     パネリスト:北上田 源(アメラジアンスクール沖縄)
         普天間 朝佳(ひめゆり平和祈念資料館)
         宮城 晴美(沖縄大学)  


【聴講料】300円(予約不要)

【Ustream】http://goo.gl/SI0i1

     インターネット上のUstreamにて生放送で配信いたします。会場に足を運べない皆様に、ご覧頂ければ幸いです。

【主 催】沖縄大学地域研究所

【共 催】日本平和学会
    

-----------------------------------------------------------
 <お問い合わせ先>
    沖縄大学地域研究所
      電 話:098−832−5599
      F A X :098−832−3220
      e-mail:chiken@okinawa-u.ac.jp

― 趣 旨 ―

岐路に立つ沖縄の平和教育。
 沖縄戦や米軍統治の歴史、基地問題等について、どのように教え、どのように伝えることができるのか――沖縄の未来像をどのように描き、どのような平和を想像/創造するのか、それは、未来を担う子どもたちをどのように育てるのか、という課題に深く関連している。
 の節目に、沖縄の平和教育を振り返り、実践の最前線を学び、ともに語り合おう。今こそ、平和教育に真正面から向き合うとき!

           ☆

参加しそこなったのを悔やんでも仕方が無いので、久しぶりに宮城晴美氏と援護法の関係を回顧して書いてみる。

ここでひと言いわせてもらうと、沖縄戦関連で集団自決の証言者である宮城晴美氏や援護法について書こうとしたら当然過去に引用した資料について言及せざるを得ない。 場合によっては過去に自分の書いたエントリーを再現する事だってありうること。   これを否定し全く新しい資料をもとに書けといっても、それは無いものねだりと言うものである。   そう、現在係争中の「パンドラの箱掲載拒否訴訟」のキモはここにあるのである。   つまり、琉球新報は同紙に長期連載中の沖縄戦記「パンドラの箱が開く時」を、掲載日の直前になって掲載拒否した理由を、以前と同じ資料を引用したからと主張しているのである。   琉球新報の主張がいかに馬鹿げているかは、一番の当事者である前泊博盛沖国大教授(当時の担当記者)が証人決定の直前になって出廷をドタキャンしたことだけでも自明である。     さて、宮城晴美氏だが、「11万人集会」の行われた2007年にも講演会を行っていた。 ⇒「集団自決」の証言者  宮城晴美さん講演

以下は当時(2007年)のエントリーを編集したものである。

 

6月23日の慰霊の日の地元紙のフィーバーは例年を上回る異常ぶりだった。

「集団自決」で「教科書検定意見撤回」を叫ぶプロ市民運動と地元サヨク学者は強力タッグを組んだ。

それを地元マスコミが後押し、と言うよりむしろ主導した。

マスコミに煽られて、県内の各市町村議会が次々と「検定意見書撤回」が議決され、

ついには県議会まで反対決議をするという前代未聞の事態にまで発展した。

教科書問題と慰霊の日を結びつけたサヨク・メディアの思惑通りの結果だった。

慰霊の日の報道で、地元マスコミは得意満面で電子号外まで出した。→電子号外(PDF、1.4MB)

                    *

同じ日に「沖縄集団自決冤罪訴訟」の証拠にもなっている『母の遺したもの』を出版した宮城晴美氏も講演会を開いた。

それを報道する琉球新報の大見出しは次のとおり。

宮城晴美さん講演

<自著「誤解されている」>  

連合、平和オキナワ集会

惨劇を 事実を 次代へ

「岩波書店と大江健三郎さんが訴えられている裁判があります。それは私の書いた本がもとになりました」。

座間味村出身で座間味島の「集団自決」について記した『母が遺したもの』の著者、宮城晴美さんが23日、那覇市民会館で開かれた2007平和オキナワ集会(日本労働組合総連合主催)で講演した。

この中で、宮城さんは、「本が誤解された面がある」と切り出し、「集団自決」への軍命の有無にかんして「助役に関しては家族に『軍命が下った』とはっきり言っている」と注目される発言をした。

「集団自決」軍命 訴え継続を強調

宮城さんは「役場職員をしていた母は、助役、学校長、収入役、伝令と五人で梅沢隊長のところへ行った。 助役が『これから住民を玉砕させるので爆弾を下さい』と言ったら(隊長は)しばらく考えて『一応帰ってくれ』と言った。 母の目の前では帰ってくれ言ったけど、実際に助役は家族の所に行って『隊長から命令がきた、これから死ぬよ』と述べた。

「戦後、梅沢元隊長が自分の名誉挽回のためいろんな行動を取ってきて住民が二分された。 母も亡くなる前に『目の前に彼が立っている』と苦しんでなくなった。 私は、母は最期まで戦争で殺されたと思っている」と深い悲しみの表情を浮かべた。(以下略)(琉球新報 2007年6月24日)

                     ◆

県内で9月出張法廷 岩波集団自決訴訟
 沖縄戦で「日本軍の指揮官の命令で慶良間諸島の住民が集団自決した」とする本の記述は誤りで、名誉を傷つけられたとして、当時の指揮官と遺族が、出版元の岩波書店と作家の大江健三郎さんに本の出版差し止めと損害賠償などを求めている訴訟の第9回口頭弁論が25日、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。今回も被告、原告双方が「集団自決」に対する「軍命」の有無について主張を展開。9月10日に沖縄で出張法廷を開き、当時「集団自決」を目の当たりにした金城重明沖縄キリスト教短期大学名誉教授の証人尋問を行うことが決まった。
 次回7月27日には、座間味島での「集団自決」について原告、被告双方が主張の根拠として引用している「母の遺したもの」の著者で女性史研究家の宮城晴美さんと、当時渡嘉敷島の守備隊中隊長だった皆本義博氏、同隊副官だった知念朝睦氏の3人の証人尋問を行うことも決まった。
 弁論で岩波書店側は、原告が座間味島での「集団自決」は村の助役の命令だったと主張していることに反論。当時の助役の家族の証言などを新たに証拠として提出し「日本軍から米軍上陸時には自決するようあらかじめ命令されていた助役が、自決のため忠魂碑前に集合するよう住民に軍の命令を伝えた」などと当時の様子を明らかにした。
 元指揮官ら原告側は「これまでの被告の主張は、防衛隊などが住民に手りゅう弾を渡したから命令があったと評価するにすぎないものや、命令の主体を特定しない『広義の命令』説であり、原告らが命令を出した張本人とする立証から逃げている」などと主張した。
(5/26 9:59)

                     ◇

>「本が誤解された面がある」

母が遺した「真実の証言」を出版し、それが「反対派」の裁判証拠とされた。

これがもとで「集団自決に軍の命令は無かった」と立証されては困るのが県内メディアで活動する宮城晴美氏の苦しい立場。

義理と人情の板ばさみならぬ、「母の遺言」と「平和運動」の板ばさみに悩む宮城氏の立場にはご同情を申し上げる。

「本が誤解された面がある」というのが精一杯。

実は本の内容は「集団自決生き残った母の証言で、『軍命令は無かった』というのが真実です」と記述されている。

だが講演では、どうしてもそうは言えない。

それを言ったら「平和運動」に水をさすことになる。

 母の遺したもの【立ち読みコーナー】 http://www.koubunken.co.jp/0250/0249sr.html
著者
宮城 晴美(みやぎ・はるみ)
1949年、座間味村に生まれる。『沖縄思潮』編集委員会、沖縄の総合月刊誌『青い海』の記者、編集者を経て、フリーランスライターに。県内外の新聞、雑誌に寄稿する傍ら、『座間味村史』(上・中・下巻)の執筆・編集に携わる。現在、那覇市総務部女性室に勤務し、『那覇女性史』の編纂事業を担当。沖縄の基地問題に取り組む「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」会員。


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■「約束」から一〇年(まえがき)

 私の母・宮城初枝は、一九二一(大正一〇)年七月、慶良間諸島の一つ、座間味島に生まれました。太平洋戦争末期の沖縄戦でいち早く米軍に上陸され、住民の「集団自決」が起こった島です。当時二四歳で、村の役場に勤めていた母は、女子青年団員の一人として座間味島駐留の日本軍と行動をともにし、米軍との銃撃戦に巻き込まれた経験をもちますが、さらに「集団自決」の“当事者”でもあったと言えます。

 一〇年前、母は、「いずれ機会をみて発表してほしい」と、一冊のノートを私に託し、その半年後、六九年の生涯を閉じてしまいました。字数にして四百字詰め原稿用紙で約百枚、自らの戦争体験を日を追って具体的につづったものでした。
 実は母は、このノートに書いた大部分のことはすでに発表していました。まず一九六二年、雑誌『家の光』の懸賞募集に応募した手記が入選し、翌年、同誌四月号に掲載されました。さらにその手記は、それから五年後に出版された『沖縄敗戦秘録──悲劇の座間味島』という本(私家版)に、「血ぬられた座間味島」と題してそのまま収録されていたのです。
 母はこの『悲劇の座間味島』と、ノートを私の目の前に開き、どこがどう違うのか説明をはじめました。事実と違う、あるいは書けなかったことを、今回は書いたという部分が八カ所ありました。村の指導者の行動や、自らが米軍の「捕虜」となったときの取り調べの内容など、本には載ってないことが具体的につけ加えられていました。
 とりわけ、本に収録された手記にあった、当時の座間味島駐留軍の最高指揮官、梅澤部隊長からもたらされたという、「住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子供は村の忠魂碑前に集合、玉砕すべし」の箇所の削除を指示する母の表情には、険しさが感じられました。「座間味島の“集団自決”は梅澤裕部隊長の命令によるもの」という根拠の一つとされ、母の戦後の人生を翻弄した数行だったのです。

 事実はそうではなかった。母は自分の“証言”がもとで、梅澤元部隊長を社会的に葬ってしまったと悩み、戦後三五年経ったある日、梅澤氏に面会して「あなたが命令したのではありません」と?告白?しました。しかしそのことが思わぬ結果を招き、母は心身ともに追いつめられることになるのです。
 改めて事実を記した手記を出版することで、母は“証言”をくつがえそうとしました。しかしそれだけでは、また別の意味で誤解を生じさせかねません。そこで母は、私にノートを手渡しながら、「これはあくまでも個人の体験なので、歴史的な背景や当時の住民の動きを書き加えてから発表してね」と言い、私も軽く引き受けたのです。でもその時は、そんなに早く母が逝ってしまうとは、夢にも思いませんでした。

 それにしても、なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。また事実を?告白?したことで母に何があったのか──。それを調べていくうちにわかったことは、「国家」の戦争責任は不問に付され、戦後の何十年もの間、?当事者?同士が傷つけあってきたということでした。
 結果的に母は、「事実はこうだった」と明確にせず、ある意味で責任を果たさないまま鬼籍に入ってしまいました。しかし、戦後なお“終わらない戦争”を引きずって生きた母の遺したものを、戦後世代の私が“追体験”し、ここに「新しい証言」として公刊することで、「母の償い」に代えられるのではないかと思っています。
 一二月六日は母の命日です。今年でちょうど一〇年、やっと母との約束を果たせそうです。そしてなによりも、座間味島における日米の戦いで尊い生命を奪われ、中途で人生を断たれた多くの人々の供養になればと願っております。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・                    

自分の虚偽の証言が梅沢元隊長の人生を破壊してしまったことを知り故宮城初江さんはことの重大さに気づく。

そして自分の“証言”を悔いた。

真実の告白を決意するが「反対勢力」との狭間で悩んだ。

「真実の告白」を自筆のノートに遺して娘の宮城晴美氏に託して他界する。

 

>なぜ母は事実と違うことを書かなければならなかったのか。また事実を?告白?したことで母に何があったのか─

「違うことを書かなければならなかった」というのはノートに書き遺した「真実」のことでは無い。

文学少女だった初江さんが、後世こんな大事(おおごと)になるとは考えもせず、ローカル誌「家の光」の懸賞文に自分の「戦争体験記」として応募した「(口裏あわせした)“違うこと”」のことをさす。

本人にとっても梅沢元隊長にとっても不幸なことに、応募した「戦争体験記」は入選し、同誌に掲載されてしまった。

それから“違うこと”が本人の意思とは関係なく独り歩きを始める。

この辺の事情を『母の遺したもの』の著者宮城晴美氏は次のように説明している。

≪母はこれまでに座間味島における自分の戦争体験を、宮城初枝の実名で二度発表している。まず、1963年発行のの『家の光』4月号に体験実話の懸賞で入選した作品「沖縄戦最後の目」が掲載されたこと。それから5年後の1968年に発行された『悲劇の座間味島−沖縄敗戦秘録』に「血ぬられた座間味島」と題して体験手記を載せたことである。
ではなぜ、すでに発表した手記をあらためて書き直す必要があったのかということになるが、じつは、母にとつては“不本意”な内容がこれまでの手記に含まれていたからである。
「“不本意”な内容」、それこそが「集団自決」の隊長命令説の根拠となったものであつた。≫

◆母の遺したものhttp://www.zamami.net/miyagi.htm

 

亡き母が良心の呵責に耐えかねて書き遺した手書きの遺書とも言うべき手記。

母の遺志を継いで『母の遺したもの』としてこれを出版した宮城晴美氏。

だが、沖縄の異常な言論空間は、宮城氏を県内の対立意見の狭間に立たされることになる。

県内メディアで生きる宮城氏は、皮肉にも母と同じ苦しい立場を辿ることになる。

宮城氏が「沖縄集団自決冤罪訴訟」の原告側の『証拠』を出版していながら、一方では被告側の「証言者」になると言う「ねじれ現象」を本人が一番苦にしていると推察する。

この「ねじれ現象」こそ「集団自決」問題の象徴でもある。

座間味島の集団自決から33回忌(32年後)に当たる昭和52年3月25日、宮城初枝さんは娘に「梅澤隊長の自決命令はなかった」ことを初めて告白した。 事実は、梅澤隊長のもとに自決用の弾薬をもらいに行ったが断わられ追い返されていたのである。集団自決の命令を下したのは、梅澤隊長ではなく、村の助役だった。

では、なぜ村の長老たちは宮城さんにウソの証言をさせたかといえば、厚生省の方針で、非戦闘員が遺族年金など各種の補償を受けるには単なる自決では足りなく、軍の命令があった場合にだけ認められるという事情があったからだ。座間味村(そん)の遺族が国から補償を受けるためには、ウソでも軍の命令で集団自決したという証言が必要だったのだ。

その後、宮城初枝さんは梅澤隊長に面会して謝罪し、命令を下した助役の弟も梅澤隊長が無実であることを証言する念書を梅澤氏に手渡した。こうして座間味島では、住民側の証言によって梅澤隊長の命令はなかったことが証明されたのである。(「沖縄の集団自決『軍命令」』は創作だった」より抜粋)http://www.jiyuu-shikan.org/tokushu2_fujioka.html

            ☆

1995年(平成7年)6月23日付沖縄タイムスは宮城晴美氏の手記を「母の遺言」として3回に渡り掲載した。



母の遺言(上) 母の遺言(中) 母の遺言(下)
母の遺言 (上)    母の遺言 (中)    母の遺言 (下)

 

そのなかの「母の遺言(中)」で、宮城晴美氏は、集団自決における軍命と援護法の関係について赤裸々に真相を語っている。」


切り取られた"自決命令"

「玉砕」は島民の申し出

援護法意識した「軍命」証言

宮城 晴美

母は、どうして座間味島の「集団自決」が隊長の命令だと書かなければならなかったにか、その真相について私に語りだしたのは、確か一九七七牢(昭和五十二)だったと思う。

戦没者の三十三回忌、いわゆる「ウワイスーコー」と呼ばれる死者のお祝いを意味した最後の法事があると私は聞き、「島の人は何を孝えているのだろう」という気持ちから座間味島の取材に出かけたときのことである。

「援護法」とのはざまで

話は一九五六年(昭和三十一)にさかのぼった。

沖縄への「援護法」(正確には戦傷病者戦没者等遺族援護法)の適用を受け、座間味村では一九五三年から戦没者遺家族の調査が着手されていたが、それから二年後、村当局は、戦争で数多く亡くなった一般住民に対しても補償を行うよう、厚生省から来た調査団に要望書を提出したという。

この「援護法」は、軍人・軍属を対象に適用されるもので、一般住民には本来該当するものではなかった。

それを村当局は、隊長の命令でで「自決」が行われており、亡くなった人は「戦闘協力者」として、遺族に年金を支払うべきであると主張したというのである。

つまり、国のシステムから考えれば、一般住民に対して「勝手に」死んだ者には補償がなされず、軍とのかかわりで死んだ者にだけ補償されるといういう論理を、住民たちは逆手にとったことになろうか。

その「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。

母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小きな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。

島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。


それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の"目"を意識せざるを得なかった。

軍と運命を共に

(省略)

一九四四年(昭和十九)九月、この島に日本軍か駐屯するようになったころから、住民は兵隊たちと運命を共にすることになる。

(省略)

忠魂碑の前に

一九四五年(阻和二十)三月ニ十五日、三日前から続いた空襲に代わって、島は艦砲射撃の轟音(ごうおん)に包みこまれる。方々で火の手かあがり、住民は壕の中に隠れていても、いつ砲弾が飛び込んでくるか、ただおびえているだけであった。

そんな夜おそく、「住民は忠魂碑の前に集まれ」という伝令が届いたのである。

伝令が各壕を回る前に、母はこの伝令を含めた島の有力者四人とともに、梅澤隊長に面会している。

有力者の一人から一緒に来るようにいわれ、意味もわからないまま、四人についていったのである。

有力者の一人が梅澤隊長に申し入れたことは、「もはや最後のときがきた。若者たちは軍に協力させ、老人と子どもたちは軍の足手まといにならぬよう忠魂碑の前で玉砕させたい」という内容であった。

母は息も詰まらんばかりのショックを受けていた。

(沖縄女性史研究家)

            ☆

 援護法が絡む沖縄戦関連の訴訟である「沖縄靖国(合祀取り消し)訴訟」で、原告側の敗訴が確定した。 同訴訟には原告側証人として石原昌家沖国大名誉教授が証言台に立ち、「(軍の命令が理解できるとは思われない)6歳児以下の幼児が援護金の対象になっているのは。国が軍命を捏造して歴史を書き換えたから」と言う趣旨の証言をし、事実上「集団自決における軍命は援護法受給のための方便だった」と法廷で証言してしまったのだ。

石原教授は大江・岩波を被告とする「集団自決訴訟」では逆に被告側の応援団として、「軍命はあった」と証言していた.

その一方で石原教授は、先日原告の敗訴が確定した沖縄靖国(合祀取り消し)訴訟で「軍命を否定」する証言をした。

石原教授が「援護法の適用のため国が拡大解釈して軍命を捏造した」と証言した意味は大きい。

石原教授は「援護法研究の第一人者」として、県公文書館などで、一般人には閲覧不可能(個人情報として)な援護法関連の資料を独占し、それを基に沖縄靖国訴訟でも長大な援護法関連の意見書を法廷に提出していると聞く。

訴訟が終結した現在、法廷に提出した資料は原則として公開のはずである。

集団自決の真相解明には、援護法が沖縄でどのように実施されてきたかを解明すことが不可欠である。

沖縄靖国訴訟の結審は思わぬ所で援護法解明の絶好の機会を一般に公開することになる。

沖縄靖国訴訟の結審が「援護法と歴史捏造」の新たな論戦の出発点である、という所以である。

 ⇒援護法と歴史捏造、新たな論戦の出発点

 

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