メディアリテラシーの生きた教材として最近の記事を挙げたら、越来のK本S子さんが古い記事からより好適な教材を探し出してくれた。
< 越来のK本S子さん メディアリテラシーを授業に!記...
狼魔人様
>生きたメディアリテラシーの教材を挙げる。
<「尖閣は中国領」に反発>という大見出しを一面トップに掲載し、石垣市で行われた日米中の軍事専門家による安全保障シンポジウムを大きく報じた5月19日付け八重山日報と、当初はこのニュースをスルーし、一日置いた20日のベタ記事でこれを報じた沖縄タイムスを読み比べること…
自分が、生きたメディアリテラシーの教材として挙げるならば、1975年の沖縄海洋博の開会式へのご出席のために沖縄にお見えになられた皇太子御夫妻、現在の天皇・皇后両陛下を、「ひめゆり学徒隊の恨み」、というありもしない恨みつらみで暗殺未遂に至ったテロ事件の容疑者の1人が、2010年9月13日の名護市議会選挙で名護市議に当選した事実を伝える産経新聞と、その事実を黙殺し、その当選を写真付きで、一面で紹介する沖縄タイムスを読み比べること、でしょうか。
・皇太子ご夫妻“襲撃”元活動家が名護市市議に当選 辺野古に反米・反日グループ集結?
(記事削除につき、こちらの日記の過去記事を紹介)
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925/e/b0d0300f95e0529059b57675220d5efd
・名護、与党が圧勝 辺野古移設 困難に
4増 16議席占める
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-09-13_10178 >
☆
折角だからこの記事を少し振り返ってみる。
⇒言論封殺の沖縄紙、皇太子ご夫妻“襲撃”を隠蔽! 2010-10-19 07:27:082010年9月の名護市議選挙で当選した川野純司氏が、皇太子ご夫妻を襲撃した過激派くづれであることをすっぱ抜いたのも全国紙の「産経新聞」であった。
皇太子ご夫妻“襲撃”元活動家が名護市市議に当選 辺野古に反米・反日グループ集結? 2010.10.9 産経新聞
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)の名護市辺野古への移設計画をめぐり、辺野古およびその周辺が、県外から集結する反米・反日活動グループの拠点になり、「闘争」がこれまで以上に過激になるのではという危機感が地元で広がっている。9月の名護市議選で、飛行場の受け入れ反対派が圧勝したことなどが理由だ。(宮本雅史)
選挙は定数27人に対し、受け入れに反対する稲嶺進市長派が16人を占めた。
名護市内の飲食店経営者は「反対を前面に打ち出した4、5人の候補者が労働組合などの支援で当選したため、反対活動が活発化するのは避けられない。特に川野純治さん(55)が当選したことが大きい。彼はPTAの活動を通して地元との関係を強くしていたが、経歴や現在の活動内容が不安材料だ」と話す。
公安関係者によると川野氏は、天皇陛下が皇太子時代の昭和50年7月に沖縄県をご訪問された際に糸満市内で、ご夫妻の車列に、空き瓶やスパナ、鉄パイプの切れ端のような物を投げつけて“襲撃”した人物。公務執行妨害容疑で逮捕、懲役1年6月の実刑判決が確定した。
当時の報道や関係者の証言によれば、川野氏は当時、「流血も辞さない戦いで皇太子上陸を阻止する」と宣言していた沖縄解放同盟準備会(沖解同)の活動家。事件について川野氏は平成9年6月、新聞社のインタビューで「天皇と沖縄戦の問題を考え、ふと現代に目を移すと、同一線上に巨大な米軍基地がありました」と振り返っていた。
活動家グループの機関紙やホームページなどをみると、川野氏は事件後も米軍基地反対運動を積極的に展開。9月の名護市議選では「移設反対を徹底する」と訴えていた。
ある市議は「事件のことは投票日直前に一部市民の間で流れたが、ほとんどの市民は知らなかった」と指摘する。
公安関係者は「市議という公の立場にあることで、川野氏の発言力も増す。全国から同志が集まり、反対運動が激化する可能性も高い」と警鐘を鳴らす。
すでに辺野古では、反対運動に変化が出始めているという。ある自営業者(61)は「最近、県外から活動家らしい人物が集結しているようだ。反対運動を展開していた地元のオジーやオバーも反対運動から排除されつつあるという話を聞いた。県外から反対活動家が集まり、辺野古が反対運動の拠点になるのではないかと不安だ」と語る。
基地問題などに積極的に反対姿勢を見せる地元の退職教職員会支部が最近、15年ぶりに復活したことに危機感を募らせる声もある。
ある地元民は「全国から退職教職員が夫婦で名護に来て選挙活動を展開していた」と、名護が活動家の拠点になる可能性を危惧(きぐ)している。
◇
産経が報道した10月9日の一ヶ月も前に、当日記は川野純治氏が天皇陛下に火炎瓶を投げつけた過激派であることを記事にしていた。(少し自慢!)
【追記】⇒【動画】38 - ひめゆりの塔事件 - 1975
では、地元紙の沖縄タイムスは名護市議選をどのように報じていたか。
投票日の翌日の同紙は、支援者に囲まれ万歳を唱える喜色満面の川野氏の写真を掲載し当選を祝福している。
写真で見る河野氏に皇太子ご夫妻を襲撃した凶暴な元過激派の面影はない。
はたして川野氏に投票した有権者で彼の「暗い過去」を知っていて投票した人が何人いるであろうか。
移設ノーに追い風 名護市議選
「普天間に終止符打つ」比嘉祐さん 容認から反対
2010年9月13日 (略)
「民意示された」
当選の反対派3人
名護市議選では、米軍普天間飛行場の移設問題で、辺野古への移設反対の先頭に立つ人たちが相次いで当選を決めた。
東恩納琢磨さん(49)は、2006年の同市議選で1票差で次点だったが、県議会選への現職市議の出馬を受け、繰り上げ当選。市長支持派の過半数という結果に「市長選、市議選と民意は示された。『基地は要らない』。これは名護市からのメッセージと国は理解してほしい」と訴えた。ヘリ基地反対協議会の仲村善幸さん(63)は2期目の当選。仲村さんは「雇用、医療、福祉。基地問題の解決を抜きにして、そのほかのまちづくりはできない。市民が分断された14年の間、名護市民が自覚し始めた結果だと思う」と語った。
新人の川野純治さん(55)は、27番目最後の議席に滑り込んだ。熊本生まれ鹿児島出身。地縁・血縁はなかったが、一貫して基地建設反対を訴えた。「名護市は生まれ変わる。稲嶺市政を支えて基地問題を解決したい」と意欲を示した。
(略)
名護市中山当選を決め支持者と万歳する川野純治氏(中央)=13日午前0時50分
◇
地元紙が全国紙に出し抜かれるのは記者の素質のせいで仕方の無い面もある、という意見もある。
だが事実はそうではない。
沖縄二紙はいずれのニュースも知っていながらあえて「不都合な事実」として読者の目から封殺したのが真実である。
なぜなら川野純司氏の情報についても、産経に先駆けて、当日記は9月14日には既に記事にしているくらいだから。
筆者のような個人が知っていて機動力のある沖縄二紙が「知らなかった」では通る話ではない。
それにしても沖縄タイムスは見事なまで絶好のメディアリテラシーの教材を残してくれたものである。
昨日のエントリーの切っ掛けとなったは、若者の新聞離れを憂う大学生の投稿だった。
二年前の古いエントリーでも沖縄タイムス「読者の声」が、「新聞は先細り」と嘆いているのは新聞の将来を暗示して余りある。
<最近の大学生は、本はおろか新聞も読まない。 活字に触れないわけではない。 新聞の情報はネットでほとんど代用できるからだ。 確かに、優良の情報は有料である。しかし、沖縄の新聞の情報は優良だろうか。正直、広告ばかりで読むべき記事が少ない。また情報の即効性もネットには勝てない。>(国吉泰史さん=23歳、南風原町)
沖縄紙がこのままの歪曲・捏造体質を続行するなら、若者の新聞離れはさらに加速の度合いを増すだろう。
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【おまけ】
メディアリテラシーの教材として2007年から2008年にかけての「集団自決」関連の記事ほど好適なものはない。
次から次へと紙面に登場する戦争体験者の証言何の検証もなく沖縄2紙は連日誇大に報道した。
数ある眉唾証言のなかでも次の3人の著名人の証言は、素人が見ても一瞥で真っ赤な嘘と言うことがわかる噴飯物であった。
その「嘘つき三人組」の有名人とは?
☆
「毒おにぎり」・「おじや強奪」・「メチル禍」 三人組の悲惨な体験
文科副大臣「120点」 検定意見撤回実行委の要請を拒否 (1/16 9:56)
<【東京】沖縄戦の「集団自決(強制集団死)」検定問題で、検定意見の撤回を求める県民大会実行委員会の仲里利信委員長(県議会議長)ら代表は15日午後、文部科学省に池坊保子副大臣を訪ね、検定意見の撤回と歴史教科書に「日本軍による強制」を明記するよう求めた。(略)
冒頭、池坊副大臣は「県民の気持ちを真摯(しんし)に受け止め、本当に誠実に取り組んできた。皆さんはそれ以降どういうふうに思っているのか話を聞きたい」と話した。>
要請では、玉寄哲永県子ども会育成連絡協議会会長、小渡ハル子県婦人連合会会長、平良長政幹事(県議)がそれぞれ沖縄戦の体験談を話した。>
◇
■「三顧の礼」も度が過ぎると・・。■
「仏の顔も三度まで」ともいうが、仲里利信県民大会実行委員長と玉寄哲永、小渡ハル子両副委員長の「三人組は」今度の政府への要請行動は同じ四度目の上京である。
「教科書検定意見撤回要請」を同じように四度も突きつけたことになる。
この三人組、断られても断られても繰り返せば目的を達せられる、と勘違いしているようだ。
こちらの誠意を伝える場合は「三顧の礼」もあり得るだろうが、
度を超すと「四顧の無礼」になるのではないか。
「三人組」の共通項は、三人とも沖縄戦の体験者で地元新聞に夫々衝撃的な沖縄戦の体験記を発表していることである。
だが、もう一つの共通点もある。
それは、三人とも沖縄戦の体験者ではあっても、
慶良間島の「集団自決」の体験者ではないということである。
■仲里→「毒おにぎり証言■
?1仲里委員長は、当初仲井真県知事を担ぎ上げようとしたがこれに失敗すると、県議会が決議をした関係で否応なし?に実行委員長に祭り上げられた。
だが,仲里議長を一躍有名にしたのは「毒入りおにぎり」の証言であろう。 ⇒毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る
極度の食料不足でソテツの毒を抜いて食料にしていた時期に、
「毒入りおにぎり」を子どもに勧める残忍な日本兵の話は、
あまりにも衝撃的で日本全国は勿論、
海を超えてかのニューヨークタイムズにまで報道された。↓
「毒おにぎり」が海を渡る 仲里証言をニューヨークタイムズが報道■玉寄→軍刀によるおじや強奪、換わりに手りゅう弾■
?玉寄哲永副委員長は、県子ども会育成連絡協議会会長という肩書と年齢(73歳)から勝手に想像そうするとご子ども好きの隠居さんが、子ども達の世話でもしているとの印象だが、テレビ画面で見ると髪の毛を後ろでちょんまげ風に束ね、激しく政府を糾弾するアジを飛ばす姿はとても隠居老人の印象ではない。
ちなみに「沖縄県子ども会育成連絡協議会」は「子育ての環境を作る支援」が本来の業務のはずの県の外郭団体で、その会長がこのように政治運動に走ることは問題のはず。
この方の記事は連日地元紙をにぎわうが、経歴に関しては筆者は寡聞にして知らない。
だが、10月9日の四国新聞3面・時の人の紹介によると、玉寄哲永(73)沖縄県民大会呼びかけ人 戦後地元新聞記者、女性団体の広報担当から沖縄県こども会育成連絡協議会会長を30年、・・・だという。 戦後地元新聞記者、女性団体の広報担当、・・・なるほど臭ってきた。
玉寄氏は単なる子ども好きの隠居老人ではなく、「子ども会育成」と」言うより「プロ市民」というのが相応しいようだ。
玉寄氏は琉球新報の特集<史実封殺>?で次のように証言している。
<母親が子供のために取っておいた最後のおじやを、軍刀を振り上げ要求した日本兵。
避難のため父親らが一晩かけて掘った穴を自分たちが使うから出て行けと言った日本兵。
「貴様らこれを使え」と手りゅう弾を手渡す日本兵。
十一歳当時のことだが、玉寄さんの目には今もはっきり焼きついている。>
次々出てくる証言者? 「集団自決」 証言で自爆
同じ小さな島で起きた証言も語る人によって「事実」が異なる。
「なべ底のおじやを、軍刀で強奪する日本兵」は、当時の食料不足から判断して、一歩譲って理解したとしても、
別の証言者が、その貴重な食料の「おむすびに毒を入れて泣く子に食わそうとする日本兵」との証言を信じるのは困難だ。(毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る )
>「貴様らこれを使え」と手りゅう弾を手渡す日本兵。
ここでも日本兵が民間人に手りゅう弾をいとも簡単に手渡す証言だが、実は係争中の「沖縄集団自決冤罪訴訟」の被告側が、
「軍命令があった」とする唯一の証拠が「手りゅう弾が民間人の手に渡った」という事実である。
日本兵から手りゅう弾を手渡された多くの住民が生き残って証言している事実と「軍命」の矛盾をこのお方は気がついていない。
軍命違反は銃殺ものだし、何よりもご本人は生き延びておられるではないか。
殆どの日本兵は故郷に家族を残して沖縄に着任してきた平凡な父であり、兄であったはずだ。
それが、マスコミのイデオロギー報道に毒されて、新聞に報道される日本兵は悪鬼のように扱われるような証言で埋められるようになった。
連日、新聞に登場する「証言者」は口を揃えて日本軍の“悪事”糾弾の証言をしている。
これら証言者たちに言わせれば沖縄守備隊(32軍)116,400人の兵士たちは犯罪者集団か鬼畜集団だったことになる。
■小渡→メチル禍の惨劇、家族分断■
?小渡ハル子県婦人連合会会長、は戦後沖縄から遠く離れた神奈川県でメチルアルコールを飲んで亡くなった父も日本軍のせいというお方だ。 メチル禍も日本軍の責任? <史実封殺>届かぬ沖縄の心 1
以下は去年の12月24日エントリー↓のの
悪いのは全て「日本軍」 メチルで死んだ父も軍のせい」 の再掲です。 さて、今日から始まった琉球新報の連載特集の第一回目。社会面トップを飾る大げさな見出しは・・・。
<史実封殺> ーーーー届かぬ沖縄の心 1
戦後命絶った父
家族裂く戦 歪曲許さぬ
その第一回目だが、まがまがしい見出しとともに、写真入で小渡ハル子さん(76歳・県婦連会長)の証言を紹介している。
紙面構成からは日本軍の残虐性に対する証言者の怒りが滲み出している。
だがよく読んでみると、・・・。
「終戦後 命を絶った父」・・・父君は戦時中は神奈川に在住し、沖縄戦とは直接関わってはいない。
ましてや「命を絶った」のは、敗戦後の日本で流行した「メチル禍」(★下記解説)が原因であり、これも日本軍の残虐性とは全く関係ない。
新報記事では次のように記されている。
<・・・終戦後の46年2月。 神奈川で「沖縄は玉砕した」と友人から聞かされた父は、沖縄にいる全てを失ったと思い込み、友人とメチルアルコールを飲み、自らの命を絶った。>
「自らの命を絶った」という見出しとは如何しても重ならない。
「家族裂く」・・・も偶々運悪く、父君一人を神奈川に残して一家で里帰りした為、結果的に家族が引き裂かれる不運にあったわけで、これも日本軍の残虐性とは無関係。
「歪曲許さぬ」・・・も、証言者は何一つ「日本軍の残虐性」を証明する証言をしていない。
★メチル禍http://yabusaka.moo.jp/kai1945.htm
・・・日本では終戦直後から軍が放出したものが闇市場に流れ、猛毒性を知りながらメチル入り酒の販売が行なわれていた。そのため1年間で、報告されただけでも2000件のメチル禍が起こっており、1500人以上が死亡するという大惨禍をひき起こしていた。1946年になってもメチル入り酒は野放し状態で、死亡者はさらに急増した。46年1月から9月までの総被害者439名中292名(70%)が死亡、60名(13%)が失明したため警視庁では警鐘を鳴らす談話を発表した。ちなみに失明することから「目散るアルコール」とも言われていた。
◇
■「三人組」に共通する「悲惨な体験」■
仲里委員長、そして玉寄、小渡両副委員長の「三人組」は
「毒入りおにぎり」、
「軍刀でおじや強奪、貴様らはこれをと、手りゅう弾」
「メチル禍」「家族分断」
・・・といった「残酷非道」な日本軍の体験者でもある。
お気の毒に。
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